天子に内々の話を告げられた日から、ルルーシュは連邦内のことを調べ上げた。
密かに国にいた頃に使っていた部下と連絡を取ったのだ。協力してくれるとは思わず、駄目で元々だと考えていたのだが、彼らは快く引き受けてくれた。
実を言えば、かつてのルルーシュの部下たちは彼女自身に心酔している者たちなのでルルーシュの命は至上のものだったのだ。
上がってきた報告は酷いもので、政治の中央は大宦官とそれに追随する官僚や貴族の思いのままになっており、民の幸福は蔑にされていた。
今まで国として機能していたことが不思議なほどだ。

「ルルーシュ様、お体に触りますわ」

夜も更けた頃、寝椅子に座って報告書を広げていると、侍女がやって来て星刻より贈られた花茶を持ってきた。そしてルルーシュに羽織るものを差し出す。

「私は病人ではないぞ?」
「いいえ。今が一番大切な時期でございますよ」

ルルーシュが笑うと、至極真面目な顔で侍女は返す。
ここしばらく連邦内のことを調べることに夢中になっており、自分の体のことに無頓着だった。
だが、妊娠初期が一番流産の危険があると聞いたことがあるような気がした。

「くれぐれもお体をおいとい下さいませ」

ルルーシュの体を労わる侍女に、ルルーシュは「わかっている」と笑って返した。
こうして侍女と気安い会話を楽しむようになったのは、本当にここ最近のことだ。ルルーシュの妊娠を機に、なにくれと侍女が世話をやくようになった。それを鬱陶しいと思っていない自分にルルーシュは驚いている。
そして、今日出張から帰ってくるはずの人のことを尋ねていた。

「……星刻は、まだか?」

部屋を出ていこうとしていた侍女が立ち止まった気配がする。侍女には背を向けたままだが、彼女がかすかに笑みを浮かべているのが手に取るようにわかった。

「はい、まだご帰宅なされておりません。ですが、御心配なさらずとも、すぐにお帰りになりますわ」

では、と侍女は言って笑いながら部屋を去っていった。

「まだ、か」

ここ最近すっかり癖になってしまったもので、ルルーシュは腹に手を当てた。
懐妊したことは、屋敷の者たちしか知らない。
星刻よりも先に大宦官たちへと知らせることが業腹だったからだ。
天子や親しくしている女官に知らせていないのは、オデュッセウスとの結婚話が出て平常ではいられないだろうに、余計な気遣いをかけたくなかったから。
天子を信じてみようと決心してから、ルルーシュと天子の距離は急速に近づいて行った。元より天子は人懐こい性格なのだろう。ルルーシュが柔らかな態度で接すれば、天子もまるで姉を慕うような態度を見せるようになった。
図らずも、大宦官がルルーシュに天子の教育係を依頼した際に言ったような関係になっていた。

「星刻…」

星刻はルルーシュの懐妊をどう思うだろうか。この二週間、ふとした瞬間に頭を持ち上げる思いだった。どちらかといえば不安の方が大きい。だが、その中にも捨てきれない小さな甘さがあった。
まさか自分がこんな夢見がちなことを考えるようになるとは思わなかった。
ぼうっとしていると、突然がたっという音がした。
驚いたルルーシュが部屋の出入り口を見れば、そこにはひどく疲れた様子の星刻がいた。
どうやら今の音は星刻がたてたもののようで、いつも腰に下げている剣が床に落ちている。今にも星刻は倒れそうで、壁に手をついて体を支えていた。

「星刻!」

驚いたルルーシュは、急いで星刻の元まで走り、その体自分に寄りかからせて支えた。しかし、がっしりとした星刻の体はとても重くて、力がないルルーシュは床に崩れそうになった。
こんな星刻の様子は初めて見た。ルルーシュは狼狽した。いったい、星刻はどうしたというのだろうか。
ここで立っていては床に倒れるのは時間の問題で、ルルーシュは星刻の身を横たえられる場所に行くことにした。

「星刻、あと少し歩け」 

尋常でない様子だが、ルルーシュの声はかろうじて聞こえているのだろう、星刻はかすかに頷いた。
寝台には少し距離があったので、ルルーシュは比較的近い寝椅子へ星刻を引きずるようにして歩かせた。
やっとの思いで星刻を寝椅子まで歩かせて、そこに身を横たえらせる。
ルルーシュは床に座り込んで、ぐったりとしている星刻の額に手を当てて見る。あまり高くはないが、微熱はあるだろう。取り合えず、先ほど侍女が持ってきてくれた羽織りものを星刻にかけた。
薬を持って来させた方がいいだろうと、侍女を呼ぶためにルルーシュは床から立ち上がった。

「ま、て…」

だが、それは他ならぬ星刻の手でさえぎられた。星刻がルルーシュの腕を掴んで引きとめたのだ。

「待てって…何か薬でも持ってきた方が楽になるだろう?」

そう言ってルルーシュはやんわりと星刻の腕を外そうと掴まれていない方の手を星刻の手に添えたが、反対に星刻に強い力で引き寄せられた。ルルーシュは、星刻の厚い胸の上に倒れこんでしまう。

「星刻!」

突然のことに、ルルーシュは声を上げた。
しかし、星刻は非難の声を無視して、ぎゅっと腕の中にいるルルーシュを強く抱き締めた。
その抱き締め方は縋りついてくるようなもので、それに気づいたルルーシュは戸惑ってしまった。

「星刻…?」

戸惑いの声をあげるルルーシュに、星刻は腕の力をますます強くし、ここにルルーシュがいることを確かめるように細い腰に手を這わせた。

「もう、少し…もう少しだけでいい。こうさせてくれ…」

絞り出すような声だった。
いったいどうしたと言うのか、ルルーシュは押し付けられた胸に手を当てて顔を持ち上げ、星刻の表情をうかがった。
星刻は目を閉じていて、先ほどの疲れきったような表情からはいくらか安堵しているような表情になっていた。
そうして、ようやく気がついた。

(これは、クロヴィス兄上の薔薇の…)

星刻のただならぬ様子にルルーシュも気が動転していたのだろう。いま、ルルーシュはようやく気が付いた。
星刻からは、婚儀の夜と同じようにあの濃い薔薇の香りが漂ってきていた。

『私もすぐに向かいますが』

高亥の嫌な笑みが脳裏に蘇る。
この二週間、星刻はあの高亥と共にいたのだ。もしかしたら、忍耐強い星刻にもついに限界が来ているのかもしれない。
ぎゅっとルルーシュは拳を握って、六年間、いやきっと父の代からずっと耐え続けてきたのだろう星刻のことを思って胸を痛めた。
ルルーシュは再び頬を星刻の胸に押し当てて、確かな鼓動の音をじっと聞いていた。その音を聞きながら、先日医者に診てもらった腹の子供のことを思い出す。

「星刻…」
「……なんだ?」

ルルーシュが星刻を呼べば、先ほどよりもしっかりした声が返ってくる。
腰に添えられ、抱き締められた腕から伝わる星刻の体温が励ましてくれるようだ。
「妊娠した」

はっきりと、なるべく淡々とした口調になるように告げた。本当は、今までにないくらいルルーシュの鼓動は早鐘を打っていたのだけれど。
しばらく星刻は微動だにしなかった。
その沈黙がルルーシュの不安を増大させたのだが、唐突に星刻は飛び上がった。
それこそ文字通り、ルルーシュを抱き締めたまま硬い寝椅子の上で勢いよく状態を起こしたのだ。自然ルルーシュは星刻の膝の上に座る形になった。

「本当か!?」

星刻はルルーシュの両肩を強く掴んで、顔を近づけた。
その勢いに驚き、のまれ、ルルーシュはこくこくと頷くことしかできなかった。

「そうか…子が」

ルルーシュが頷くのを確認すると星刻は、花がほころぶように満面の笑みを見せた。だが、その笑顔を引っ込めて慌てた顔をした。

「大事ないか? 私が引き倒したときに腹を打ったりはしていないか?」

何を慌てるのかと思えば、星刻はそんなことを聞いてルルーシュの腹を心配そうに眺めた。
そのうろたえた姿に、思わずルルーシュは噴き出してしまった。笑いは止まらず、声まで上げてしまう。
おかしさから声をたてて笑ったのはいつ以来だろうか。

「ルルーシュ! 笑いごとではない!!」

ルルーシュの態度に、星刻はますます声を大きくした。
なんとか笑い声を抑えると、ルルーシュは星刻の手を取って自分の腹に触れさせた。

「お前も、案外胆が小さいな。これくらいでは、子は流れぬぞ」

常ならばルルーシュの言葉に反論するだろうが、星刻は自分が触れているルルーシュの腹に注意がいって気にならないようだ。
大きな手が自分の腹に恐る恐る触れる様は見ていておかしい。

「本当に、この腹に子がいるのか?」
「確かにいるぞ。生まれるのは半年も先の話だが」

ルルーシュだって不思議に思うことが多々あるのだ。その身に宿しているわけではない星刻には、まったく信じられないのだろう。
胸が暖かくなる。いつの間にか星刻の表情や姿が不安を打ち消していた。いまだ恐る恐る触れている星刻の姿にくすくす笑っていたルルーシュ。
しばらくそうしていた二人だが、ルルーシュの笑い声がようやく止むと、星刻が先ほどと同じくらいの力でルルーシュを抱き締めて静かに告げた。

「くれぐれも体には気をつけてくれ」

それは子供のためだけに? 本当はそう聞いてみたかった。だが、こんなにも疲労している今宵に聞くのは意地が悪い気がしてルルーシュは一言だけ答えた。

「もちろん。お前の子、無事に産んでみせる」


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