「ルルーシュ様、お顔の色が優れませんが…どうかなさいましたか?」

天子と最初に語らいを持った日に茶を入れてくれた女官が、天子の付きでも最古参の者らしく、あれからルルーシュが訪れる時に何くれと世話をやいていた。
相変わらずその女官がルルーシュに向ける不可解な視線の理由はわからなかったが、困ったこともないのでルルーシュはそのままにしておいた。

「いや、大事ない。ここのところ夜が遅いからかもな」
「まぁ。どうぞお体をおいとい下さいませ」

心配顔で女官は、ルルーシュの前に茶を置いた。相変わらず、天子のところで出される茶は茉莉花茶だった。さすが天子のところで供される茶だ。香りも実によいものだ。
ここのところ体調が思わしくなくて食事もあまり喉を通らない。顔色が優れないのもそのためだろう。
腹はすくのだが、食べる気分になれないのだ。
だが体調が思わしくなくてもやるべき仕事はきちんとこなすのがルルーシュだ。

「天子様のダンスの進み具合はどうでしょうか?」
「ステップを覚えられたところだ。そろそろパートナーをつけて練習していただこうと思っているのだが…。誰ぞ適当な相手はいないものか」

ルルーシュは、嘆息して一人ステップを練習する天子を眺めた。
文化差のある儀礼などは後々でも構わないとして、習得に時間のかかるダンスを一番最初にルルーシュは天子に教えることにしていた。
相変わらず天子はおどおどとした態度だったが、身近に接するうちに知ったその教養はさすがというものだった。
態度に苛立たされることも多々あったが、天子の覚えはけっして悪いというものではなく、むしろ優秀なものだ。

「お相手…ですか?」

「あぁ。私が務めさせていただいても構わないが、できれば男性の方が好ましい。どうしても体格などが違ってくるからな」

ルルーシュがどうしたものか、と思案していると、女官が胸の前で手を叩いて顔を輝かせた。

「では、星刻様にお願いしてはいかがでしょうか?」
「……夫に?」

ルルーシュはあらかさまに顔をしかめてしまった。
あの日。ルルーシュが天子を詰ったあの夜から、星刻はルルーシュの元を訪れていない。かれこれ十日ほどになるだろうか。愛人の元にでも入り浸っているのか、屋敷にも帰って来た様子はなかった。

「ええ! 星刻様は一時、天子様のそば仕えであったこともあった方ですもの。天子様も――天子様! ダンス練習のお相手を星刻様にお願いしてはいかがですか?」

女官は自分の考えを話しながら、それが一番いい案だと思ったのだろう、言葉尻を一人で練習していた天子に向けた。
その言葉にはじかれたようにこちらを振り返った。

「ダンスの練習を、星刻に?」
「ええ。ルルーシュ様が誰かお相手を交えて練習された方がよろしいと」

にこにこ笑う女官とうかがう様にルルーシュを見る天子。
ルルーシュがあっけにとられている内に相手は星刻で決定してしまっている。
本当は許可をとって、中華連邦に滞在する在ブリタニア帝国大使を呼び寄せようと思っていたのだ。中華連邦でブリタニア帝国やヨーロッパ圏で行われているダンスを踊れる者を他に知らなかったからだ。
あの無骨を絵にかいたような星刻にダンスが踊れるとは思わない。ルルーシュが教えることになるのだろうか。

「いや、しん、」
「本当に、本当に、星刻がやってくれるのですか?」

ルルーシュは、その案を否定しようとしたが、いつもは言葉少なな天子が珍しくルルーシュの瞳をじっと見つめて言い募った。
その瞳がとても真摯でルルーシュは、断る言葉を吐くことができなくなった。

「……夫に確認してみないとわかりませんが。そのように取り計らいましょう」

ルルーシュの言葉がよほど嬉しいのか、天子の顔が目に見えて輝いた。それこそ、ルルーシュが初めて見た天子の満面の笑みだ。

「ところで、夫は天子様のそばにお仕えしていたこともあったのですか?」
「御存じ、なかったですか?」
「…ええ。あまり、仕事の話はしませんから。大恩ある天子様に誠心誠意お仕えしろとは言い含められましたが、詳しいことは何も」
仕事ばかりでなく、話自体ほとんどしないが。
ルルーシュとしては至極簡単な質問をしただけなのだが、天子はルルーシュの質問に先ほどまでの笑顔をしぼませて女官の方をちらりと見やった。

「もう六年ほど前になりますか…。まだ星刻様がお父上の代理としてこの城に出入りしていた頃のことです。その時に、星刻様が牢に繋がれた罪人に薬をお与えになってしまって。そのことを咎められたのですが、ちょうどそこに天子様が居合わせまして、お許しになられたのです。星刻様の言う『大恩』とはそのことではないかと。それから星刻様が士官学校に入られるまでは、天子様付きのそば仕えとしてお仕えになられていました」

だから、星刻はあんなにもルルーシュに食ってかかったのか。ルルーシュは先日の星刻の様子を思い出して、合点がいった。
優しさを持つことは国の主として良いことだ。星刻はそれを天子の器だと言っているのだろうか。
だが、どうしてこの話をするのを天子はためらったのだろうか、それがルルーシュには不思議だった。女官もいささか表情が硬い。
その時ちょうど別の女官が天子を呼びにきた。なんでも火急の謁見があるらしい。
天子が去った部屋にはルルーシュと女官が残された。

「夫は罪人になるところだったのか…」

天子と女官はそのことを隠したがったのだろうかと考えたとき、ぽろりとその言葉を口にしていたらしい。女官がものすごい勢いでルルーシュを見た。

「そんなことはございません! 罪人と言いましたが、その…」

大きな声で否定した後、女官は声を低めて悔しげに言った。

「牢に繋がれていた方は無実です。星刻様のお父上のよきご友人で、立派な方でした。それを、それを…」

そこまで言われてルルーシュは全てを悟った。
星刻が薬を渡したという罪人の罪は冤罪。女官が立派だったというのだ、おそらく星刻の父や祖父と同じく志高い者で大宦官には邪魔な存在だったに違いない。それゆえの投獄か。

「みなまで言わずともよい。言いたいことはわかった。その先は口にするな」
「はい……」

もともと虫の好かない大宦官だ。ますますルルーシュは彼らに嫌悪を感じた。
女官は、口元を袖で覆い隠して悔し涙を瞳に浮かべた。

「口惜しゅうございますわ。立派だった方を…。それにあんなことがなければ星刻様だとて、あのようなことをせずとも…」
「夫がどうかしたのか?」

ルルーシュは女官の言葉を聞き咎めた。その話は星刻が天子のそば仕えであったことにしかつながらないはずだ。
だが、女官の言いようではその事件が元で何か星刻は大きなものに絡めとられたかのような言い方だ。

「御存じ、ない、と? あの、ルルーシュ様」
「何をだ? 夫に何か隠し事でもあるのか? 私が知っている夫のことと言えば、ほとんどない。あぁ、だが一つ知っていたな。知っていることと言えば、愛人がいることくらいか」
ルルーシュが、女官のはっきりしない態度に開き直って言ってやれば、彼女は目に見えて顔を青くした。

「『愛人』、ですか?」
「初夜の前にさえ抱いてきただろう愛しい女のようだ。家にもあまり帰ってこないのだから、その者のところにでも入り浸っているのだろ―」
「違います!!」

自棄になって言っていたルルーシュに、女官は先ほど星刻が罪人になるところだったことを否定した時以上の勢いで、ルルーシュの言葉を否定した。
驚いたのはルルーシュだ。なぜ、女官がそんなことを言えるのか純粋に不思議だったのだ。

「どうぞ星刻様のことをお信じ下さい。星刻様は決してそんな方ではございません。愛人など、断じて星刻様にはいらっしゃいません」

まるで我がことのように女官は言い募った。その瞳は嘘を言っているようには見えず、ルルーシュを困惑させた。
いったい、どうしてこんなにも必死になるのか。

「あの方は…本当にお辛い立場なのです」

その女官の言葉はその後、一日中耳から離れなかった。
結局その日は天子がダンスの練習に帰ってくることはなく、ルルーシュは帰路についた。
女官はあのあといつものように振舞おうとしていたが、ルルーシュを必要以上に気遣っていた。そして、決して星刻が関わっている彼女曰くの『あのようなこと』は教えてくれなかった。
そして、女官は初めて会った時のような視線もルルーシュに向けてきた。
あの時のような『同情』。

『ルルーシュ様も色々と御心痛めていることと思います。』

愛人がいる夫を持つルルーシュに対する同情ではないだろうかとも思ったが、どうやら違うらしい。
確かに星刻には愛人がいるはず。あの初夜に星刻も認めるような言動をとったのだから。
だが、それならば女官のあの言動は一体なんなのだろうか。
屋敷に着いて夜着に着替え、寝室にある椅子に腰かけ本を開いていても内容は頭に入らず、ずっとルルーシュはそれを考えていた。
どうしても答えが出なくて寝台で休もうかと思ったその時だった。
ルルーシュが考えていたまさにその人、星刻がルルーシュの部屋を訪ねてきたのだ。
音もなくルルーシュの寝室に現れた星刻。扉をノックされたかルルーシュは思い返そうとしたが、意味のないことだと考え、膝に開いたままだった本を卓において寝台に歩きだした。
何も言わない星刻に、いつものようにルルーシュは夜着の腰ひもをほどこうとした。
だが、それは伸びてきた星刻の長い腕に阻まれた。
驚いてルルーシュは、星刻を見上げた。彼は、怒っている時と大差ないが、それでもすまなさそうだとわかる顔をしていた。

「……先日はすまなかった」

一瞬ルルーシュは何を謝罪しているのかはわからなくて、ぽかんとした表情を見せた。
ルルーシュは意識していなかったが、ルルーシュがそんな無防備な表情を星刻に見せたのは、寝顔以外ではこれが初めてだった。
後から思い返せば、二人にとってこの夜が真実の始まりの夜だった。

「…そなたのことをよく知りもせず。あのようなことを言ってしまったことだ」

それでルルーシュは、星刻が詫びているのが先日の夜のことだとわかった。
どこまで星刻が帝国でのルルーシュの立ち位置を知ったのかは分からない。だが表情を見れば、心から謝罪していることがわかった。

「……あのような罵り、あれ以上のものを数多く知っている身としては何も思わない」

突然の謝罪に、ルルーシュは困惑した。
なぜなら初めてだったのだ。こんな風にルルーシュに真摯に謝罪してきた者なんて、今までだれ一人としていなかった。だから、ルルーシュは星刻から視線を外して、どう受ければいいか分からない謝罪に返答した。
態度を見ればルルーシュが照れているのだとわかる。だが、その少しばかり焦ったように言った言葉の中にあった悲しいルルーシュの過去が星刻の胸を打っていた。

「本当に、すまなかった」

星刻は、低い声音で言った。その真摯な響きがひどく恥かしい気がした。
先ほどまで掴まれていた腕はすでに離されている。だが、なぜかまだ星刻に触れられているように熱を持っている気がした。ルルーシュは自然と、その腕を片方の腕で抱え込むようにした。

「だから、謝罪は不要だと…」
「それと、侍女に聞いた。出稼ぎに来ている子らに入用があればいつでも屋敷に来るようにと、取り計らってくれたと」

ばれてしまったかとルルーシュは思う。侍女にああいいはしたものの、屋敷の主である星刻にいつか明らかになることはわかっていた。
まさか、こんな正面から尋ねられるとは思っていなかったが。

「勝手をしてすまなかっ――」
「礼を言う」

今度はルルーシュが謝罪をする番だと思ったのだが、星刻はルルーシュがみなまで言わないうちに礼をしてきた。
ことの成り行きが速すぎて、ルルーシュはいささか付いていけていない。

「あの…」
「家の者がそなたに遠慮をしていろいろと制約を設けていたようだ。だが、そなた自身が認めてくれたことで子供らはまた以前のように来ることができるようになった」
「あれは…国が国たる仕事を放棄してできてしまった結果だ。だから、私は彼らよりも恵まれた生活をしている分の責務として当然のことを…」

ルルーシュは言い募った。どうして自分がこんなに狼狽しなくてはならないのだろう。
ちらりと、逸らしたままの目線から星刻のことを除き見れば、どうしてだろう、彼はとても優しい目でルルーシュを見ていた。驚いてルルーシュはすぐにまた視線を床に戻した。
自然とルルーシュの顔は赤くなった。

「…私も天子、さまのことをよく知らずに軽率な発言をしたこと、お前に謝罪する」

視線をそらしたまま、ぼそぼそと言った。
天子が真に天子たる器だということを認めたわけではない。だが、その片鱗と星刻が並々ならぬ忠誠を捧げるにいたった経緯を知って、あの発言は軽率だったと思ったのだ。
女官が言ったことも関係していたのかもしれない。

「ルルーシュ」

びろうどのような声がルルーシュの名を呼んだ。ほうっとため息を混じらせたような優しい声音だった。
まるで初めて名前を呼ばれたかのような気持ちになった。
だが、思い返せばこれが星刻に名を呼ばれた二度目だ。
一度目は自分をどう呼べば聞いてきた、最初の夜。それ以来、いつも二人称で呼ばれていた。
でも何故か、とても懐かしい気がした。
そんな風に感じる自分をごまかしたくて、ルルーシュは顔をあげて口を開いた。

「わ、私の方もお前に言わなくてはならないことが…」

「何を、だ?」

慌てて言った言葉は、ルルーシュが思った以上に狼狽したもので、その事実が余計にルルーシュを慌てさせる。

「天子様のダンスの練習相手を務めてほしいのだ」
「私が?」

ルルーシュの提案は予想外のものだったのだろう、星刻は素直に驚いたといった表情を作った。
ああ、どうして今日は互いにこんなに素直に感情が感じられているのか。
その事実が、たまらなくルルーシュには恥ずかしかった。

「天子様にブリタニアの夜会でよく行われるダンスをお教えしているのだが、男性パートを務めてくれる相手を探していて。それで、天子様がお前に、相手を…。だから」

いつもならもっと簡潔な言葉で説明できるものも、あまり頭が回っていない今の状態ではそれがままならない。
だが、ルルーシュの説明は正確に星刻に伝わったようだった。

「何が役に立つものかはわからないな。こんなに早くまた踊ることになるとは」
「踊れるのか!?」

星刻の了承を得ても、一から教えることになるだろうと思っていたルルーシュだ。だからとても驚いてしまった。

「……以前、ブリタニア領に付き従っていた時に必要になったので覚えた。しばらく踊ることはないと思っていたが」

星刻の苦笑は、ルルーシュの驚きに対してのものだろう。

「だが、うろ覚えでもう覚えていないかもしれないぞ」

そう言って、星刻はルルーシュの腰を抱えてホールドの姿勢をとった。
何度も素肌で感じた事のある星刻の大きな手で夜着の上から抱えられると、いつもより強く星刻の体温を感じた。片手も取られて握られる。

「確か、こうだったか? ルルーシュ」

今宵の星刻は本当にどうしたのだろうか。まるで、別人のように星刻はルルーシュに接した。
唐突にルルーシュは泣きたくなった。本当にどうしたらいいかわからないのだ。
ルルーシュは故国で散々な扱いを受けてきた。母が死んでから、唯一の心のよりどころは妹だった。
だが、ナナリーは拠り所にしかなり得なく、ルルーシュはナナリーの盾となり全ての妬みや誹りを受けてきた。
自分で選んだ道の結果なのだから、それは耐えられた。ナナリーのためになら何だってできたのだ。
強い自分でいようと思った。
誰に何を言われても傷つかない、そんな強い自分でいようと思った。
その決意をしたのが九つの時で、それから何度もルルーシュは様々な悪意にさらされて生きてきた。
いつだって言葉は小さな棘やナイフでルルーシュを傷つけてきたのだ。ルルーシュの名を呼ばれるときだって、辛辣なものがほとんどだったのだ。
こんなに優しい声音で名前を呼ばれたのはいつ以来だろうか。
星刻のホールド姿勢は完璧だった。故国で当代随一と呼ばれる貴公子と比較したって遜色のない綺麗な姿勢だ。踊ってみなければわからないが、このままリードを任せても大丈夫だという気にさせる。

「星刻…」

ルルーシュは星刻の名を呟いた。その声はまるで慕わしい人を呼ぶような甘さを含んでいた。
ルルーシュ自身は意識していない。ただ穏やかになった星刻につられるようにそうなってしまったのだ。

(安心できる…)

散々肌を合わせてきたのに、今この時が星刻の全てを感じているような気がした。その体温に誘われるように、ルルーシュの体から力が段々と抜けていく。

(そういえば、体調が思わしくなかった――)

つい思案にふけってしまい自分の体調を忘れていたルルーシュだが、星刻の穏やかな対応に何か張り詰めていたものがふつりと切れたようだ。

「ルルーシュ!? おいルルーシュ! しっかりしろ!!」

星刻の声とは思えない切羽詰まった声に、我知らず笑みが漏れた。
その声を最後にルルーシュは意識を失った。


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