「お初にお目かかります、ルルーシュ皇女殿下」
自分の結婚をシュナイゼルから告げられてから、わずかひと月後、ルルーシュは中華連邦にいた。
ブリタニア皇族専用の機体から朱禁城すぐ傍の飛行場に降り立ったところを出迎えたのは、腰を折って頭を下げる大宦官と呼ばれる官僚たちだった。中華連邦を実際に牛耳っている者たちだ。
中華連邦の実情は、遠くブリタニア帝国にまで届いており、この結婚が進む前からルルーシュの耳にまで聞こえていた。
先代の天子が皇后と共に不可解な死を遂げると、まだ立太も済ませていなかった現在の天子が大宦官たちによって擁立される。その後、彼らは天子が幼いという理由から政の一切を取り仕切るようになる。もともと、官僚たちの権力が強い国であったが、最近の権勢は過去の比ではなかった。今では、天子はただの装飾であると政治の中枢にいる者たちなら誰でも知っている。だが、大宦官たちは情報操作に長けており、その実態を大多数の連邦人民は知りえなかった。
「ああ、前口上は不要だ」
ルルーシュの言葉で、大宦官たちが「それでは、お言葉に従いまして……」と言いながら面を上げる。
写真で事前に顔を知っていたとはいえ、権力へ媚を売る心がありありと出ている大宦官たちの顔は醜悪そのもので、ルルーシュは顔をしかめていた。
これから、この者たちが治める地で一生を過ごすのかと思うと、気分が暗くなった。もっとも、ルルーシュがこれまで生活していた帝国もあまり代わり映えのない者たちが治めている国ではあったが。
彼ら一人一人が挨拶をしているが、ルルーシュはおざなりに返事をするだけだ。ただ、自己紹介をしてきた官僚の中に、夫となる者の縁者がいないことは気になった。
「……と、ルルーシュ殿下。皇帝陛下や宰相閣下は婚儀の席には」
先ほどから代表してルルーシュに話しかける趙皓は、その真意が手に取るようにわかる笑顔で問うてきた。
この降嫁によって、ルルーシュは比較的高い帝国の皇位継承権を放棄することはなかった。だが、皇帝や宰相のことを聞いてくることから、ルルーシュ自身に彼らが意味を見出していないことは明白だ。おそらくこの降嫁はただの足がかりであり、大宦官たちには更に自分たちの欲や利益を満たすための策があるのだろう。
もし、ルルーシュ自身に存在価値が見出されるならば、それは――。
「皇帝陛下はお忙しい。それゆえ、こちらで行われる婚儀には出席できないそうだ。だが、宰相閣下…シュナイゼル兄上は、出席なさると仰っていた。正式な出席の返答は、今日中に届くはずだ」
「それはそれは、喜ばしいことです」
ルルーシュの返答に、集った大宦官たちは満足げに笑う。皇帝が出席しないと知っても、あまり落胆の色は見られない。それは、シュナイゼルが出席するからだろう。この結婚話をまとめてきたのはシュナイゼルだ。大宦官にとっては、皇帝よりも丁重に扱わねばならない存在であるはず。そういう意味では、今回の婚儀の席は彼らにとってシュナイゼルに媚を売る絶好の機会に違いない。
分かりやすい大宦官たちの思惑に、ルルーシュは心の中で彼らを嘲笑った。ルルーシュにもシュナイゼルの真意は分からない。だが、大宦官たちの思惑通りに動くような人でないことは、誰よりもよく知っていたから。彼らの浅はかさがおかしかったのだ。
「趙皓と言ったか……」
「はい、皇女殿下」
しかし、シュナイゼルの真意がなんだというのだろう。降嫁をして、政治の中枢からは離れた場所に行くルルーシュにはもはや関係のないことだ。
「もう一人、高亥だったか? その姿が見えないが。それに、私の夫君となる者の姿もないようだが?」
それゆえ、ルルーシュはこの場に姿が見えない者。これから一生を共にしなければならない相手と、その後見にあたるだろう者のことを尋ねた。結婚する当人だけがいないならば、後で引きあわされるのだろうとルルーシュも思う。だが、他の大宦官たちが揃う中で、後見役の高亥までがいないことが引っかかった。
「申し訳ございません、殿下。実は、高亥はただ今ブリタニア帝国領エリア九の大使館に出向いておりまして、星刻もそれに従っております」
趙皓はルルーシュの問いに何を勘違いしたのか、ひとく満足げな様子で答えた。ルルーシュが星刻に興味を持っているとでも思ったのか。その勘違いは煩わしかったが、訂正するのも面倒だった。
「国を留守にしているのか」
「明日にも高亥も星刻も帰国する予定ですので、そうしましたらすぐにでも殿下の元に…」
「どちらでもよい。どのみち婚儀の席では顔をあわせるのだから」
庶出の皇女とはいえ、仮にもブリタニア帝国の姫に対する扱いではないな、と口の端をゆがめた。このような、ルルーシュを皇女とも思わない振る舞いは帝国にいた当時より受けていたため、心が傷つくこともない。だが、他国の者にまで同じことをされるとは、自分の情けなさに涙が出そうなルルーシュだ。
「心づかいありがとうございます。そのお言葉、高亥と星刻にしかと伝えさせていただきます。では、これから殿下が婚儀までの間にお過ごしになられる朱禁城は迎賓館にご案内いたします」
最愛の妹のためならば、どんな苦境にも耐える自身のあったルルーシュだ。だが、自分の一生は他人の思惑や策略に利用されるだけであるのかと思うと、命をかけて妹と自分を守ってくれた母に対してとても申し訳のない気持ちでいっぱいになった。
『ルルーシュ…。あなたは、自分が選んだ人と幸せになるのよ』
幼い日に、寂しげにルルーシュに告げた母の言葉が胸に突き刺さる。その時、子供心に父帝とは情が絡んだ結婚ではなかったのだと漠然と理解した。
『きっと、きっとよ…。あなたが一番大切だと思える人がきっと現れるから』
母が誰を想っていたのかは知らない。だが、ルルーシュはその母の願いを叶えることはできないようだ。
(申し訳ありません、母さん。どうか、その願いはナナリーに。そして、どうぞ帝国のあの子を見守っていてください)
一度目を伏せたルルーシュは、決意も新たにして、ぞろぞろと先導をする大宦官たちの後へと続いた。
どのみち婚儀の席で会うのだからと言ったものの、婚礼の前に二人が訪ねてくるのだろうとルルーシュは憂鬱に思っていた。だが予想に反して、夫となる星刻と後見の高亥が、ルルーシュの仮の住まいである朱禁城の迎賓館に訪ねてくることはなかった。
(よほど私に価値はないらしい)
婚礼が行われる今日、一人の侍女も連れずに嫁いできたルルーシュは、朝早くから朱禁城に仕える女官たちの手で着飾らされ、中華連邦で婚礼衣装とされる真紅の衣を身にまとい、夫となる者が迎えに来るのをただ待っていた。
襟が高く、金糸でフェニックスの刺繍が全体に施されていた真紅の衣装。シルクの肌ざわりが心地よいが、初めて着る長い袖が鬱陶しい。頭の上にも金の冠をかぶせられて、ひどく重い。
帝国で行われる婚儀しか知らなかったルルーシュは、中華連邦に来て初めてこちらの流儀を知った。どうやらこちらでの婚儀というのは、花嫁がすることなどほとんどないようだ。古来の風習にのっとった手順を踏んだ婚儀では、その儀式のほとんどを新郎主導で行うようで、ルルーシュがやったことといえば、新郎がたてた使者に返答の手紙を持たせたり、新郎からの贈り物を目に通したりすることくらいだ。
本来であれば花嫁も参加しなければならない儀式があるようだが、ブリタニア帝国から婚儀に出席する参列者のことや、今だに帝国の皇位継承権を保持したままのルルーシュの身分を考えていろいろと簡略化したらしい。帝国宰相へのご機嫌伺いといったところだろうとルルーシュは思っていた。
ルルーシュがするのは、これから迎えにくる新郎と共に祝宴に出席して挨拶をうけることくらいのようだ。
(兄上や出席する帝国貴族への配慮が大きかったと見える)
苦く笑ったルルーシュは、しゃらりと袖を揺らして腰かけていた椅子の肘かけに腕をつく。首をめぐらせて、部屋に積み上げられた婚礼の贈り物を見てため息をついた。
(黎星刻……。どのような男なのか)
結婚を告げられてから、知りもしなかったその男のことをルルーシュ自身も調べた。シュナイゼルから粗方の経歴は聞かされたが、自分で情報を得ないと信じられなかったのだ。
黎星刻。代々優秀で高潔な官僚を輩出してきた歴史ある黎家の現当主。しかし、その有能さと高潔さを、私腹を肥やそうとする官僚たちに疎まれて先々代が策に嵌められ、彼が当時得ていた宰相職を追われたその際に帝国で言えば伯爵位に相当する中華連邦貴族の位をはく奪され、黎家は没落。それでも星刻の父である先代黎家当主は、その有能さから官吏となったが、真に国を憂えている高潔さが大宦官たちに疎まれて上級官吏への道を閉ざされ、下級官吏にしか登用されなかった。若くして病を得た先代黎家当主は失意のなか亡くなる。
それが、約五年前。その後を継いだのが、当時、一九歳で士官学校を出たばかりであった星刻だ。
彼は元々官僚を志望していたようだが、一八の時に士官学校に入り最短の時間で卒業すると、その才を認められ、すぐに高亥の武官に任じられて現在までその職についている。星刻のおかげで、以前のようにとはいかないが、衰退していた黎家は息を吹き返した。
よくよく調べてみたが、高亥の遠縁にあたるなどという事実はなく、建前だけのようだった。
だが家の歴史から見れば、地位さえあれば皇女を貰い受けるに相応しい家柄だった。
どうやら、今回ルルーシュを娶るにあたり以前の貴族位を再び与えられたらしい。
(自らの手で地位を勝ち取った男)
事前に写真で見た星刻の顔を思い描き、どこか自分と似た境遇だった男に、言いようのない気持ちを抱いた。
(私のできなかったことを……した男)
それは、自分ができなかったことを為し得た勝利者に対する嫉妬であった。
またも自分の不甲斐なさに唇を噛んだルルーシュだが、部屋の扉が叩かれる音で現実に引き戻された。
「……どうぞ」
部屋の扉が再び開かれるのは、新郎の手によるものだと事前に教えられていた。だから、いささかルルーシュの声も硬いものになった。
「失礼いたします」
ルルーシュの返答に扉を開けて入って来たのは、ルルーシュとよく似た真紅の衣装に身を包んだ男だ。彼の衣装には、ドラゴンが刺繍されている。写真で見るよりも威圧感のある姿で、帝国最強の騎士、ナイトオブラウンズのような雰囲気を纏っていた。
「お初にお目にかかります、ルルーシュ皇女殿下。このたび、恐れ多くも殿下の夫君という栄誉をいただきました黎星刻でございます」
星刻は、入って来て早々に腰を折って挨拶をし、首のあたりで一つにまとめていた彼の黒髪が揺れた。ルルーシュは返事をせずにしげしげと、その姿を眺めた。星刻はその姿勢のまま先日のことを詫びてきた。
「先日は、お迎えに上がることもできず、申し訳ありませんでした」
「仕事ならば、仕方がない。謝罪する必要などない」
あまり心のこもった言いようではなかった。別段、ルルーシュは星刻が迎えに来なかったことに腹を立てているわけではない。この結婚のために妹と離れて国を出た時からルルーシュの心は凍りつき、朗らかな言葉も表情も出てこなかった。
もっとも、故国においてさえルルーシュが笑顔を向け暖かな言葉を向ける対象は限られていたが。
ルルーシュの冷たいともとれる言いようだったが、星刻は気にした風でもなく、「ありがとうございます」と言って顔をあげた。
そうして露わになる、精悍な顔立ち。
強い意志を秘めているのだとわかる暖色の瞳がルルーシュを貫く。
(これが、自分で勝ち取ることを知っている者の目か)
黙って自分を見つめてくる星刻の視線を見つめ返しながら、ルルーシュはそんなことを思った。
だが、何故だろう。
その瞳は、今の自分と同じように、諦めを知っている者の目にも見えた。無表情のくせに、瞳だけが感情を乗せているようだった。
しばらく見つめ合っていた二人だが、先に視線を逸らしたのは、星刻だ。
(なぜ…視線をそらす?)
ルルーシュには理解できない。自分で今の地位を勝ち取り、庶出とはいえブリタニア皇女を娶るという、客観的に見れば栄達を得たのに。なぜ、と疑問がルルーシュの胸を占拠する。
星刻は、問いかけるようなルルーシュの視線を振り切り傍にやって来る。近づいてくると、体格に見合った大きな手を差し出した。見上げた星刻の瞳は、もう先ほどの感情を映してはいなかった。
「…では、祝宴に参りましょう。宰相閣下も既に到着されておられます」
大きな手。ルルーシュにこうして手を差し出してくるのは、かつて父ではなく兄であった。母が生きていた頃、シュナイゼルは安心を与えてくれ無条件に信頼できる人だった。
「そうか」
だが母が死に、政治的な後見役を失った頃から、シュナイゼルも他の大勢の人々と同じように、敵の一人となった。 それ以降、ルルーシュは誰も信じようとはしなかった。きっと、一生このままなのだろうと思う。
「では行こうか……」
静かに自分の手を星刻のそれに重ねたルルーシュは呟いた。無表情のままの星刻は、黙ってルルーシュの手を引き、祝宴の場へ向かう。
重ねた手は今でもよく覚えているシュナイゼルのそれとは違い、武人特有の剣だこがあるものだ。二人はずっと無言だった。政略だと理解しての婚儀。相手はどうだか知らないが、ルルーシュは彼と慣れ合うつもりはなかった。ただ、与えられた『妻』としての役割を果たすだけだ。だから、彼のことを知ろうと話をしようとする気持ちもなかった。
ルルーシュが星刻の調査を命じた際、恋人の有無などは調べさせなかった。調査させても意味がないからだ。公式の場などでルルーシュを妻と立てるならば愛人がいようと構わない。
干渉をしない代わりに、自分にも干渉させない。ルルーシュは、一生そうしていくつもりだ。もう、面倒を抱え込みたくはない。
ちらりと黙ったままの星刻の顔をのぞき見上げれば、非常に硬い表情だ。栄誉あるなどと白々しい言葉を吐いてはいたが、不本意だったのだろう。これは早々に自分の胸の内を話して、好きに生活してくれと言った方がよさそうだ。
何も言わない星刻は、ルルーシュの手を引いて、広い迎賓館の中を迷わず進み、内廊下でつながっている別の館へと足を進めた。そうして見えてくるのは、精緻な彫刻がなされた木製の大きな扉。その前には、中華連邦軍の兵士が槍を持って立っていた。人のざわめきが聞こえてくる。
「殿下、こちらが祝宴の行われる広間です。帝国貴族の方々も会場入りされたようです」
「そうか。で、私は会場で何をすればいい?」
にこりともしない男は、余計な言葉を付け加えずに答えた。
「挨拶をしてくる我が国の者に声をかけてください。あとは、私たちがそろって食事をすることくらいですから」
到着した大扉の前で二人が並ぶ。ひと声かければ両脇の兵士が扉を開けるだろう。
「それで祝宴の席は終いか? 婚儀も?」
「はい。この祝宴をもちまして、すべての婚儀も終了します。祝宴を終了させた後、殿下には今宵より我が屋敷にお出でいただくことになっています」
その言葉が意味することは、ただ一つ。今夜から、ルルーシュは名実ともに黎星刻の『妻』になるのだ。
未知への恐怖に少しだけ肌が泡立つ。
「殿下?」
一瞬、体を強張らせたことを知られたのだろうか。星刻がルルーシュを呼んだ。ルルーシュは「何でもない」と、内心の動揺を隠し素っ気なく答えた。
「そうですか。では、祝宴へと参りましょう――開けてくれ」
兵士たちがよく訓練された動きで扉に手をかける。ひときわ大きくなるざわめき。ルルーシュには退屈で、苦痛でしかなかった帝国の夜会と同じようなものだろう。慇懃に振舞うだろう大宦官や連邦貴族、元より庶出とルルーシュを見下していた帝国貴族。そして、にこやかにルルーシュを突き落とすシュナイゼル。その相手をすることを思い描き、ルルーシュは星刻に知られないように小さなため息をひとつこぼした。
ルルーシュと星刻の婚礼の宴は、滞りなく進んだ。嫌味な貴族たちを相手にすることは面倒だったが、その中には懐かしい顔もあって想像していたよりも気が滅入ることはなかった。
「兄上はいったい何を考えておられるのか……」
だが、祝宴の席でシュナイゼルがひっそりと囁いたことが気になる。朱禁城から少し離れた場所、貴族たちの館がひしめく区画にある黎家の屋敷。そこに用意されたルルーシュの部屋。その寝台の上、足部分に腰掛け、薄い夜着だけを纏って、夫を待っているこの時にさえ兄の言葉の意味を測りかねている。
『ルルーシュ。星刻殿の子を産みなさい』
シュナイゼルが告げなくても、それがルルーシュに課せられた役目の一つであるとわかっている。大宦官たちとて、それを一日も早くと望んでいるのだろう。
ルルーシュが彼らにとって価値ある存在である時とは、非常に低いといえどもブリタニア帝国の皇位継承権を持つ星刻の子を身に宿す時だ。
そんなことを、何故いまさら。疑問は一向に解けない。
「何を考えておられる?」
自分のものでない声がした。はっとして扉の方を見やれば、星刻がいた。
「夫婦とはいえ、ノックもなしに無礼ではないか?」
緊張のためか、少しだけ動悸が速くなる。内心の動揺を悟られたくはなくて、少々きつい言い方で星刻を睨みつける。だが、彼はルルーシュの視線に構いもせず歩みを進めて寝台に近づく。
星刻は婚礼衣装こそ脱いでいたが、髪は宴席の時そのままで、湯を浴びてきたわけではないようだ。ルルーシュは眉根を寄せる。
「何度もしましたが、返答が得られなかったので何かあったのでは、と…。お気に障ったのならば謝罪いたします」
自分に非があるため、ルルーシュは黙るしかない。しかし、何度もノックをされたのに気が付かないとは、よほど自分は兄の言葉に気をとられていたらしい。
「この部屋の居心地はいかがでしょうか? 何かありましたら屋敷の者に申しつけてください。…ところで、殿下」
ぎし、と寝台が鳴る。星刻が両手を寝台について、その間にルルーシュを囲う。覗き込むように顔を近づける星刻に押されて、ルルーシュは背を寝台の布団に沈めた。吐息が感じられそうな距離。星刻が膝も着いて、ルルーシュの頭の脇に両手をつきなおす。
「私は、あなたをなんとお呼びすればよいのでしょうか?」
中華連邦においてルルーシュの地位というのは、非常に曖昧なままだ。貴族階級などの位でいえば、ルルーシュよりも上位なのは天子だけだ。それゆえ、祝宴の席でも大宦官以下みなルルーシュにへりくだった物言いをした。それは夫である星刻も同様だった。だが、これを一生続けるのは、確かに互いにとって負担になるだろう。ルルーシュも面倒な言葉づかいなどできればしたくはない。
「なんとでも。敬語もいい。その言葉づかいを聞いていると、息が詰まる」
「では、ルルーシュとお呼びしても?」
「……一度で言ったことを理解しない無能にかける言葉は持ち合わせていない」
憮然とした面持ちでルルーシュが言えば、星刻は口の端を持ち上げた。皮肉げな表情だが、ようやくルルーシュは無表情以外の星刻を見た。
「奇遇だな。私もそんな愚鈍な輩と交わす言葉は持ち合わせていないな」
がらりと変わった口調で言った星刻は、ルルーシュの顎先に手をかける。唇が近づく。ルルーシュはされるがまま目を閉じた。
(おかしなものだ。いつかはこうなるとわかっていて、覚悟もあったはずなのに……)
初めて口づけられて、ルルーシュは体をこわばらせる。耐えるために、敷布を両手でぎゅっとつかんだ。
星刻の唇は、何度かルルーシュの薄いそれを食むと、首筋に移動していく。
少女が夢見るような口付けの余韻などは、皆無だった。
彼の手が器用にルルーシュの夜着の合わせを割り、かさつく手が肌に直に触れる。そうして、動いた拍子に、自分とは違う黒髪が下がる首筋が鼻先を掠めた。
かすかな汗の匂いと、それに交じる花の――。
「っ――」
それに気づいた瞬間、ルルーシュは渾身の力を込めて星刻を突き飛ばした。不安定な姿勢でいた星刻は、ルルーシュに倒れこむことこそしなかったが、その反動か床に尻もちをつくことになった。
星刻は抵抗されるとは思っていなかったのか、少し驚いた表情を見せたがすぐに眉を寄せた。睨みつけながら立ちあがる。
「今宵は婚儀の夜。夫婦の契りを交わす夜のはずだが?」
もちろん、ルルーシュとて理解している。さっきまでは、大人しくこのまま星刻にこの身を任せようと思っていたのだ。
「私とて承知している。お前に抱かれることを了承していないわけではない。だが……」
「だが?」
ルルーシュは、夜着の合わせを押さえながら、星刻の視線を負けじとにらみ返した。
「どこぞの女を抱いたその手で、おざなりに抱かれるのだけは我慢ならない!」
その言葉で、星刻の表情が凍りついたのを確かに見た。
先ほど星刻から漂って来た、むせ返るような薔薇の香。確かに、女性向けの香水の残り香だ。
どのブランドのものかなどは、装飾品や化粧に興味のないルルーシュは忘れてしまったが、確かに故国で嗅いだ事のある香りだった。特徴的な香りで、匂いだけは覚えている。祝宴の席でつけているものはいなかったはず。しかもこんな、汗と交じるように首筋から匂いたつなど考えられることは一つしかなかった。
「私は、お前が外に愛人を抱えようが何をしようが、そのことについて口を出すつもりはない。私が、お前の子を産んだ後なら、子供だとて産ませようと文句は言うまい。だが、私をその愛人たちの二の次に扱うことは許さない!」
怒鳴り声だった。こんな大声を出したのは、母が死んで父に抗議した時以来かもしれない。あれから、叫ぶことは止めた。誰も助けの手を差し伸べてくれるわけではない。意地の悪い者どもの失笑を買うだけだったからだ。
星刻は、ルルーシュの言葉を黙って聞いていた。だが、その瞳が初めて会った時に見せたような諦めの色、悲しげな色を一瞬のせた。
それは見ようによっては、ひどく傷ついているようにも見えた。
どうして、そんな目をするのか。一瞬目に入った星刻の瞳。ルルーシュは無理やり自分の思考の中から、その傷ついたようにも見える瞳を追い出した。
「………湯を浴びてくる」
背を向けた星刻は、それだけ言ってルルーシュの部屋を出て行った。
「はっ――」
その背中を見送って、ルルーシュは声を立てて笑った。笑っていると自分では思っていた。だが、それは泣き笑いに近い表情で、第三者が見たら痛ましさに目を伏せただろう。
惨めだった。例えようもなく惨めだ。
自分に力がないために、この身を婚姻に利用することでしか妹を守る術はなかった。
政略の末の結婚。取引の道具としてしか自分を見ない大宦官たち。忍び笑いをするばかりで帝国貴族と代わり映えのしない連邦貴族たち。
そして極めつけは、ルルーシュよりも愛人を寵愛している夫。
覚悟していたはずでも真実を突きつけられる衝撃は大きかった。
何もかもが、ルルーシュを惨めにさせる。置かれた境遇と自分の無力さがどうしようもなく情けなかった。
「私は、何のために生まれたのだろうな?」
ぽろりと涙が頬を伝った。その時にようやく、ルルーシュは自分が泣いていたことを知った。
誰へともつかない問いかけは、暗闇にぽつりと落ちて、聞き咎める者は誰もいなかった。
序章/
TOP/
2
|