「あら、もうこんな時間。出かけなくちゃ」

自室に荷物を取りに行き、もう一度ダイニングに戻ってくると、食後のもう一杯を飲んでマリアンヌはくつろいでおり、、時計を見てなんでもないことのように言った。 顔色を変えたのは、ルルーシュだ。ナナリーは、歯を磨きに行っていて席を外していた。

「て、母さん、もう出ないと本格的に遅刻じゃないか! 今日は朝から会議だって言ってただろ! どんなに急いで駅に走って、ちょうどの電車に乗れてもギリギリにしか会社につかないだろう!」
「そうそ、会議なのよ。朝一で会議って、何考えてるのかしらね?」
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃない!」
「あらあら、あせらなくてもいいのよ、ルルーシュ。だって…」

一人、焦るルルーシュと、ゆっくりとマグの中身を飲むマリアンヌ。
対照的な二人の間に、ピンポーンと間の抜けたチャイムの音がした。

『はーい!…あ、シュナイゼル兄さま!』
『やぁ、ナナリー、おはよう。今日もかわいいね』
『兄さまも、今日もカッコいいですよ。母様、呼んできますね』
『ありがとう。いつもすまないね』

ダイニングいる二人よりも玄関の傍にいたナナリーが朝の客人を出迎えると、聞きなれた声が二人にまで届いた。

「ね!」

そして、マリアンヌは満面の笑みでをルルーシュに向けた。シュナイゼルの登場にルルーシュは全てを悟って脱力するしかない。
シュナイゼルは、ルルーシュたちの異母兄かもしれないと言われている人だ。
彼は、しばし…いや頻繁にランぺルージ家を訪れて、マリアンヌの送り迎えをしている。 その昔、マリアンヌがシュナイゼルの馬術を含んだ家庭教師をしていた時からの縁のようだ。
どうやらシュナイゼルの父親と親交があったことからシュナイゼルの家庭教師を引き受けたらしい。
そのシュナイゼルの父でもあり、ルルーシュたち兄弟の父親らしい人は、世界に名だたるブリタニアグループの会長で、名家であるブリタニア家の当主だ。
彼には正式な妻の他に愛人や非嫡出の子供が多数いるようだが、その子どもたち全てを認知して愛人たちを囲っているらしい。
シュナイゼルは、そんなシャルルと正式な妻の間に生まれた嫡子であり、ブリタニア家の継嗣であった。

「母様、シュナイゼル兄さまがお迎えにきましたよ」
「はいはーい! じゃあ、そういうことで行ってくるわ。いってきまーす」

輝くばかりの笑顔で鞄を抱えたマリアンヌは、軽い足取りで席を立って、シュナイゼルが待っているだろう玄関へ向かった。

「いってらっしゃい、母様」
「…いってらしゃい、母さん」

にこやかに見送るナナリーと、いささか疲れた面持ちで母を見送るルルーシュ。

(朝から二倍疲れた気がする…)

しかし、本当に時間がないようで、相手をすると疲れる人の一人であるシュナイゼルと朝から顔を合わせないだけましだとルルーシュは思った。
頻繁に訪ねてくるシュナイゼルは、尊敬できる人だとは思う。
だが、天からありとあらゆるものを与えられたシュナイゼルを前にすると、完璧主義者のルルーシュのプライドはひどく傷つき、必要以上の体力と精神力で虚勢を張ってしまうのだ。
しかも、シュナイゼルはそれを見透かして楽しんでいる節がある。
目標にしたい人物ではあるが、非常に高すぎる壁で、稀にしか会いたくない人でもある。

「あ、お姉さま。私たちも急がないと遅刻してしまうわ」
「もうそんな時間か…。お弁当は、いつものところだから、忘れないようにな」
「はい、お姉さま!」

ぱたぱたと、自室に鞄を取りに行くのだろうナナリーの背を見ながら、ルルーシュは何の変哲もない日常に安堵した。

(なにも…何も変わったことなんてない)

そう自分に言い聞かせたが、今朝がたの夢で覚えた愛しさと恋しさはいつまでたっても消えてくれない。
それどころか、時間がたつにつれ、燻っていたものが酸素を得て更に大きくなったような気がしてならない。

(”彼”に会いたい…のか?)

自分自身でさえ持て余す己の心に、ルルーシュはその炎を消す術さえ持たなかった。


「お待たせ! 待たせたかしら?」

玄関を飛び出したマリアンヌは、既にシュナイゼルが運転席におさまっていた車の助手席に乗り込んだ。

「おはよう、マリアンヌ。今日もきれいだね」
「あら、当然よ! 眠くたってめんどくさかったって、毎日のスキンケアは欠かさないもの。そういうシュナイゼル君も、相変わらずいい男よ。18年前とちっとも変らない」
「…それはほめ言葉でいいのか、な?」
「ほめ言葉よ。成長したって言って欲しかった?」

悪戯が成功したような顔でマリアンヌは笑い、シュナイゼルは少々困った顔をした。

「あなたには敵わないなぁ。私は子供のままですか?」

まだ出発させてない車の中、ハンドルにもたれ、苦笑しながらもどこか真剣に聞くシュナイゼル。 その上目づかいでマリアンヌをうかがう仕草は、マリアンヌが彼と出会った時から変わらない。

「だって、出会ったときから並みの大人より大人だったあなたに、『成長した』は失礼じゃない?」

困った人、というように優しく微笑んだマリアンヌはそう言った。シュナイゼルは少しばかり目を見開く。
彼女が自分をそんなふうに見てくれているとは知らなかったのだ。

「それに…」
「それに?」

そしてマリアンヌは先ほどまでの聖母のような微笑みを、無邪気な子供のようなものに変えて続けた。

「だれが『子供』と子づくりしますか!」

シュナイゼルは、その輝くマリアンヌの笑顔に、真っ赤になった。
シュナイゼルだとて子供ではないのだから、恥ずかしがる必要もないのだが、どうも正真正銘初恋のマリアンヌにそう言われると今でもどうしていいかわからなくなるのだ。

「どうかした、シュナイゼル君?」
「いえ…。ちょっと…」

真っ赤になって俯くシュナイゼルの姿を、かわいいな〜と感じながらマリアンヌはにまにましながら見ていた。
いつもは冷静沈着で表情を崩すことが稀なシュナイゼルだが、昔からマリアンヌの言葉や行動にだけは易々とそれを崩す。
そんなシュナイゼルだからマリアンヌは選んだのだ。

「…で…。その『子供』じゃない子供が作った子供に、私はいつ父と呼んでもらえるんでしょうか?」

やっと態勢を立て直したシュナイゼルは、こほんと息をついて、これが本題だとばかりにマリアンヌに向き合う。
それにぴしっと音がするように固まったのは、マリアンヌだ。

「えっと…」
「最初は、確か私が大学を卒業したら、結婚してくれるっていう約束でしたよね?」
「確かそうだったような…」
「でもあの頃は、ナナリーやロロが手のかかる年だったからまた別の時ということになって、」
「そうだったかも…」
「で、その次は…」

言葉を重ねるごとに、上体を近づけてくるシュナイゼルに、とぼけるマリアンヌは後ずさるが、唐突に何か閃いた様子で、シュナイゼルの方を向いて、彼に口づけた。
それに目をきょとんとさせたシュナイゼル。

「お互いがわかってるんだし、私たちの結婚は、もうちょっと経ってからでいいじゃない!」

「ね?」と可愛らしくマリアンヌにお願いされると、シュナイゼルは強気に出れない。
これが惚れた弱みだろうかと、自分自身を情けなく思うシュナイゼルだ。
実は、ルルーシュやナナリー、ロロ、その他、ほとんどの者が知らないが、マリアンヌが儲けた3人の子供の父親は全員シュナイゼルだった。
時をさかのぼること、18年前、シュナイゼルは家庭教師として出会ったマリアンヌに恋をしたのだ。
そこからは押しの一手でマリアンヌを手に入れたシュナイゼルだが、出会って一年後、マリアンヌの懐妊が明らかになった。
もともとシュナイゼルの家のブリタニア家は、当主の結婚が異様に早く、十代で子供を持つものも珍しくなかった。
だが、大抵子供を身ごもるのは婚約者や、身内の人間であり、彼女らは早々にブリタニアの家に入って、実際に家の中で夫婦として生活してきた。
それゆえ何の問題もなかったのだが…。
シュナイゼルの場合は、相手が一般人であるマリアンヌだった。
マリアンヌは当時から「専業主婦なんてまっぴらよ」という女性だったため、ブリタニア家に入ることをよしとしなかった。
それに加えて、二人ともが本当に親しい友人(世では大抵奇人変人と言われる人々)にしか伝えず、それとマリアンヌが気難しいシャルルとやたら仲が良かったことが原因で、なぜか生まれた子供―ルルーシュの父親は、シャルルだと思われていた。
周囲がそうなのだから子どもたちとて例外ではなく、一様にシュナイゼルを「兄」呼ぶのだ。
その度に感じる寂しさは言い表せるものではない。
だが。

「…じゃあ、ルルーシュが結婚するときにでも、ちゃんとしましょうか」

シュナイゼルは何よりもマリアンヌのお願いに弱かった。
マリアンヌは「あら、名案ね!」と、シュナイゼルの首に手をまわして、もう一度軽い音を立ててシュナイゼルに口づけた。

「さあ、もう出ないと本格的に間に合いませんね」

シュナイゼルは名残惜しげに、マリアンヌの腕を外すと運転席に体を沈めて正面を向いた。 マリアンヌも上機嫌で正面を向いて、シートベルトを装着したが、「あ!」と何事か思い出したようだ。

「忘れ物でもしましたか?」

ちょうど出発するところなので、今から家に取りに戻ることも可能だ。だが、マリアンヌは困ったように眉をよせて「忘れものじゃぁないんだけどね…」と口ごもった。

「今夜、シュナイゼル君に頼まれてたパーティーあったでしょう?」

ブリタニア家の継嗣であり、自らも一企業を率いるシュナイゼルは、一般の者よりも”パーティー”というものに縁が深かった。
もちろんカジュアルで気楽なものも多かったが、シュナイゼルが出席するものの中には晩餐会や夜会と言った方が差し支えのないものもある。 たいてい、そのような場合にはパートナーを同伴するのがマナーであり、シュナイゼルはこの十数年、その役目をマリアンヌに依頼していた。 普通、このことからルルーシュたちの父親のことを周囲が悟っても良さそうなものだが、 マリアンヌとシャルルの親密な様子(実際はあくまで友好を深めている。もとい、マリアンヌがシャルルをからかっている)の印象が強すぎて、 誰もマリアンヌとシュナイゼルの仲を疑う者がいなかった。
そして、今夜行われるパーティーはカジュアルな部類に入るものだが、ダンスパーティーの色が強く、パートナー同伴で行った方が面倒が避けられるものだった。
もちろんシュナイゼルは今夜のパートナーもマリアンヌに頼んでいた。

「ええ。ドレスはどれにします? 先日、見に行ったベルベットの黒を用意しておきましょうか」

意気揚揚と、マリアンヌのドレスを語るシュナイゼルに、珍しく口の重いマリアンヌが申し訳なさそうに言った。

「いや、ね…。実は、すっかりロロの三者面談があったのを忘れてて…」
「………仕方ありませんよね、三者面談では」

いつになく殊勝な態度のマリアンヌに、シュナイゼルは残念そうにため息をつく。
子供たちには、そうと認識されていなくとも、シュナイゼルはこれでいい父親だった。 だからこそ、本当は唯一世にパートナー的扱いを受けるパーティーをことのほか楽しみにしていたとしても、子供のためになら諦める。
だが、長い付き合いのマリアンヌには、シュナイゼルを取り巻く雰囲気だけで、その落胆がわかってしまう。さすがにシュナイゼルが可哀想なマリアンヌはある提案をだした。

「そうだわ! 今日は、ルルーシュが半日で授業が終わる日よ! 私が話をしておくから、代わりにルルーシュを連れて行ってくれないかしら」

落ち込むシュナイゼルをなんとか励まそうと、マリアンヌは娘を差し出すことにした。
実は、シュナイゼル。
そうとは見えなくとも、最愛のマリアンヌにそっくりで、頭脳も明晰な娘を溺愛していた。
溺愛の仕方が、どう見ても歪んでいた(ルルーシュの知識や技量を試す真似ばかりしている)ためルルーシュ自身に伝わっていなくても、そうなのだ。
だから、滅多に着飾ることをしないルルーシュとともにパーティーに出られるならば、シュナイゼルも気分が向上するのではないかと思ったのだ。

「ルルーシュ、をですか? あの子が来てくれるなら、それ以上はないですが…」
「ドレスは、こないだ二人で選んだベージュにゴールドの刺繍が入ったやつにしましょう。 それで、髪型は…」

シュナイゼルは、ルルーシュが来ることに否はなかったが、本当に人がごった返し騒々しいところが大嫌いなルルーシュが出席を承諾するか不安だった。
しかし、マリアンヌは滅多に着飾ることがない娘のドレススタイルを決めることにあっという間に夢中になって、シュナイゼルの話を聞いていなかった。

「パーティーに行く前に、ちゃんと写真をとって私に送ってね!」

その勢いづいたマリアンヌの姿に、シュナイゼルは押しの弱いところのあるルルーシュがたぶん来るだろうことを悟って、「はい」と苦笑を浮かべた。

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