昔、一度だけ神に祈ったことがある。

父が死に、母が死に、生きる術は体を売るしかなくて。 けれど、どうしても体を這い回る男の手が気持ち悪くて。

初めて取った客を殴りつけ、死にもの狂いで逃げて教会に駆け込んだその時に。

色とりどりのガラスを背にした十字架に泣きながら祈った。

神よ。もし貴方が私を哀れんで下さるなら、どうかここから救ってください。

そう、祈った・・・・。


Sanctus sanctus sanctus


「ご機嫌よう」
「ご機嫌よう」
今宵も開かれる華麗な饗宴。
   貧しい人々から搾り取った金を湯水のように使い、絹のドレスを身にまとう貴婦人達は
暗い本性を白粉をのせた顔の下に押し隠し、優雅な微笑を浮かべてささめき合う。

「まあ!皆様ご覧になって、あれを」

一人の貴婦人が小さな悲鳴を上げて示したのは、少し離れた年若い青年たちが群れなし
ている一角。その中心には青年たちが取り巻く美姫が一人カウチに腰掛けている。先ほ
どの貴婦人が悲鳴を上げたのは、その美姫が、数多くいる青年たちの中で社交界の女達
の視線を釘付けにする貴公子にしなだれかかっていたからだ。

「何てことでしょう!本来ならば、あのような生まれの者にはお手を触れることすらで
きない御方ですのに!」
「あら、それはどういうことですの?」
「ご存知何ないのですか?あの者、元は街の娼婦だった女でしてよ。それをアズラエル
侯爵がお気に召して、ご自分の親族の方の養女にしてしまわれたのですわ」
「んまあ!!」

憎々しげにそう言った貴婦人は、その元娼婦だった女を方を嫉妬のこもった視線で睨み
つけた。すると、その視線に気づいたのか美姫は貴婦人に対し勝ち誇ったような笑顔を
見せて、見せ付けるように、自分がしなだれかかっていた男の首筋に腕を回し、襟ぐり
の大きな自分の胸元に男の頭を引き寄せた。男が嫌がっていないことなど明白で、進ん
で自分から石膏雪花のように美しい彼女の素肌の感触を楽しんで、その折れそうなほど
細い腰に自らの腕を回していた。それを見せ付けられた貴婦人は顔を真っ赤にすると屈
辱に耐えられなかったのであろか、ふらっと倒れてしまった。

「どうなさったのですか、しっかりなさって!!」



(ふん、金食い虫たちが・・・)

一人の貴婦人が突然倒れたことによって、あたりが少しばかり騒々しくなる中で、口元に
は相変わらず魅力的な微笑をたたえた美姫???アウルは心中で、着飾ることしか頭にないお
しゃべり雀たちをそう罵った。そして、もう用は無いとばかりに胸に抱えていた男の肩を押
しやった。

「どうかしたのかい?」

押しやられた男は、邪険にされたことに少しも腹を立てた様子も無く甘い声でささやいて、
名残惜しげにその手をアウルの腰から解いた。

「別に、何でも」

愛想も何もあったものでは無いそっけない態度。それでも男たちは、猫のように気まぐれで、
女王のように高慢なアウルの虜なのだ。アウルの気が向いた時に許す、その肌に。

「今日の貴方も女神もかくやという美しさだ。ほら、見てくれ。君のために東方から最高のシ
ルクを取り寄せたんだよ」
「こっちも見て御覧。君をモチーフにして作らせたエメラルドの首飾りだ」
「明日、オペラを見に行かないかい?隣国の歌姫ラクス・クラインの特別公演なんだ」

アウルの気を引こうと高価なものを送ったり、夜な夜な遊びに誘う男たち。
口元を優雅に扇で隠し、目元だけは彼らの贈り物を吟味しているかのように振舞うアウルは、その 実そんな贈り物にも言い寄る男にも飽き飽きしていた。

(これなら街で商売してた方がおもしろかったなあ・・・)

アウルは貴婦人たちが噂していたように、元は町で体を売って生計をたてていた。 しかしあることが切掛けでアズラエル侯爵に拾われ、貴族たちが暮らす社交界に出入りするように なったのだ。
最初はアウルとて、社交界の華やかさに魅せられてそれなりに楽しい日々を過ごした。だが、元々 飽き性のアウルはすぐにこの世界にウンザリして街へ帰りたいと思うようになった。

おしゃべり、ファッション、恋にしか興味の無い貴婦人たち。
権力と肉欲にしか興味の無い男たち。
そして、神に身を捧げた身でありながら俗世にまみれた聖職者。

聖職者すら堕落するこの都。

願いを叶えてはくれなかった神を恨んだりもしたが、この堕落用ではいくら祈ったところで救いなど 訪れるはずが無い、と納得してしまった。 アウルは、それから神に祈ることを止めてしまった。昔は親に連れられて形ばかりではあっても教会 に足を運んでいたが、あの日、泣きながら駆け込んだことを最後に教会へ行くことも止めた。

(そういえば、泣きたくて泣いたのはあれが最後だったな)

「――め、姫」

男たちの話を聞き流してるうちに回想に浸ってしまったアウルは少し大きな声で呼びかけられ、ハッとした。

「なに?」
「踊りませんか?」

どうやらいつの間にかワルツが始まったらしい。踊るのは嫌いではないが、この取り巻きどもと踊って やる気はサラサラ無い。ダンスを申し込んできた相手は先ほど貴婦人たちをからかった時につかった男 だった。どうやら、アウルに気に入られたと勘違いをしているらしい。その顔には断られることなど微 塵も考えていないことが伺える。

(けっ、付け上がるなよ)

そう思って、否の返事を辛辣に投げつけようとした。―――その時。

「―失礼。貴方が噂のアウル嬢ですか?」

見知らぬ男がアウルの前に姿を見せた。
その男は少々冷たい顔立ちの男で、歳は取り巻きたちと同じくらいであろうが、なぜだかその雰囲気は 彼らのそれより随分大人びているようだった。
それに、なぜだか懐かしい感じがする。

「そう、その通りだけど?なにかよう?」

アウルが初めて見る者にこうして自ら言葉をかけるのは珍しい。
そんな珍しいことをしてみる気になったのは、微かに感じる懐かしさのせいだろうか。
すると、男はスッとアウルの前に膝を付きその手を前に差し出した。

「私と、踊っていただけますか?」

その辺りの貴婦人であればそれだけで腰砕けであろう先程より低く艶のある声。冷たそうな印象を受け る整った顔にのせられた、魅惑の微笑み。こっそりと彼を盗み見ていた貴婦人たちからはうっとりした 溜め息が発せられ、同時に殺気のこもった視線がアウルに注がれた。
しかし色事に長けたアウルは彼のそんな表情や声にも引きつけられることはなかった。

だが。

アウルは彼から視線を逸らせなかった。
懐かしさの正体と彼の視線に気づいたからだ。
彼から感じる懐かしさは帰りたいと願った、あの街の荒んだ冷たい雰囲気。
社交界の住人たちからは感じることができない殺伐とした、あの感じ。
そして、顔には柔らかな微笑をのせているくせにアウルを見つめる視線は絶対零度のようで。熱に浮か されたような視線でアウルを見つめてくる青年たちとは大違い。
だから、逸らせない。いや、逸らさない。
久しぶりに感じる気分の高揚。退屈な毎日に刺激をくれそうな男。

「お前、名前は?」

アウルは彼の手を取りカウチから立ち上がると、口の端を上げて微笑み変革をもたらしてくれそうな男
に名を聞いた。

(これで当分は退屈しないかな?)

男は重ねられた手に恭しく口付け、

「スティング・オークレーと申します。どうぞ以後お見知りおきを・・・」

そう、名乗った。




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壱谷様への捧げモノにつき第一話のみ掲載。続きは壱谷様のHPで。