「でね、でね! すっごい素敵なレディでね。私もあんなレディになりたいなって」

シエル・ファントムファイム伯爵の屋敷には、当主の婚約者エリザベスの姿があった。
静寂を好み騒々しいものには容赦のないシエルだが、いとこでもあるエリザベスは別のようだ。

「そうか」
「そうなの、それで今度お茶会にお招きしようと…」

はしゃぐエリザベスは、その時ようやく屋敷の庭先にいつもとは違う景色が見えることに気がついた。
柔らかな陽光が注ぐ中、伯爵家の優秀な執事が用意したとわかる色とりどりの菓子やサンドウィッチが清潔なクロスがかけられたテーブルの上に燦然と輝いている。
室内では見たことのないソファまで出ている。

「…お茶会?」

エリザベスは小首をかしげた。
エリザベスが記憶している限りこの屋敷で茶会が開かれたことなどほとんどない。

「あぁ、今日は先日知り合った異国の伯爵夫人がいらっしゃる予定だ」
「伯爵夫人って、もしかしてビーナス様?」

目をまん丸にして聞くエリザベスに、シエルは知っていたのか?と言う表情をした。
シエルの表情から自分の思惑が正しかったとわかったエリザベスは興奮した面持ちになって更に言葉をまくしたてる。

「ビーナス様が、私が言ってた素敵なレディよ! どうして、どうしてシエル、ビーナス様とお知り合いなの!?」

頬を紅潮させたエリザベスにいささかうんざりした表情でシエルは口を閉ざしたままだ。
はぁ、と彼がため息をついた時だ。

「先日、女王陛下のお召しで出席された夜会でお知り合いになったそうですよ」
「まぁセバスチャンもお会いされた?」

新しい紅茶を入れたポットを手にしたこの家の執事が現れて、無口なシエルの代わりに言葉を紡いだ。
相も変わらず優美な手つきで空になったティーカップに新しいものを注ぐ。

「いいえ、私は会場には入れませんので。ただ大層お美しい方だとお聞きしました」

にっこりと微笑んでエリザベスに言えば、エリザベスはようやく良い話し相手ができたとばかりにその伯爵夫人のことを話し始めた。

「ええ、とってもお美しくていらっしゃるけど、それだけじゃないの! もうすっごくすっごく素敵で、優雅っていうのがぴったりで…」

とにかくいかに伯爵夫人が素晴らしいレディだったか語る。
セバスチャンは微笑んでエリザベスの言葉に耳を傾けるが、ちらりとシエルの方に意味深な視線を送った。 その視線は、今日の茶会の準備を命じた時から向けられるものだったので、意味など過ぎるほどにわかっている。
からかう視線は、「おやおや、うちの坊ちゃんがどうやったらそんなご婦人とお知り合いになれたんでしょうね」と言っているも同然だ。

「……我が社の商品をレディビーナスが国で取扱いたいとおっしゃっていた。その話をするための茶会だ」

ぼそり、と言ったシエルの顔は憮然としたままだ。
大人びた口調と子供らしい態度。セバスチャンは「おやおや」と言って肩をすくめたが、すっと無機質な視線で主を見つめた。
レディビーナスを迎えるために茶会を開く、というのは理にかなっているのだが何故かセバスチャンの中では嫌な感じがするのだ。
それがはっきり何かとは言えないのだが、とにかく嫌な予感がセバスチャンはしていた。
と、広間に置いてある大時計が鐘を鳴らして時を告げた。

「おいセバスチャン、もうすぐレディが到着する時間だ。お迎えにあがれ」
「イエス、マイロード」

この嫌な予感はちょうどシエルがレディビーナスと知り合ったあたりからのことだ。 そのため、どうにもセバスチャンはレディビーナスに対して良い感情を抱いていない。
だが執事たるものそんな感情など表に出すことはない。
いつものように玄関に向かうと、ちょうどよく馬車が到着する音が聞こえた。
はぁ、とセバスチャンはため息をひとつ吐くと、ファントムファイム家の執事たるに相応しい挙措で扉を開けた。

「………」
「ご機嫌いかがかしら?」

セバスチャンは、傾国を謳われるほどだろう美貌と妙なる調べにすら聞こえる声を知覚した瞬間、およそ彼に似つかわしくないほど乱暴に扉を閉ざした。
おそらく。いや、間違いなく、彼女がシエルやエリザベスが言っていたレディビーナスだ。
ビーナス。
愛の女神の名を冠する彼女。その名だけで気付かなかった、自分が呪わしい。

「久しぶりに会った同朋にそれはないんじゃなくて」

無駄だとはわかっていたが、玄関の扉が音もなくひとりでに開く。
彼女が扉に手をかけているわけではない。

「レディビーナスでいらっしゃいますね。ようこそファントムファイム伯爵家へ」

セバスチャンはビーナスの声など聞こえていないかのように素知らぬふりでうやうやしく頭を下げた。
ここへ彼女が来た理由など、分かり過ぎるほどに分かっているが、知らぬ存ぜぬを通しつくすことに決めている。
にっこりと、社交界の女性たちが見たら卒倒しそうなほどきらきらと輝く微笑みをセバスチャンはビーナスに向けるが、彼女は呆れたため息をついただけだ。

「…本当に従僕ごっこをしているのね。この目で見るまで信じられなかったのだけれど」
「…さぁ、どうぞこちらに。主も貴方をお待ちしておりました」

セバスチャンはビーナスの言葉を無視し、背を向けた。
だが。

「寝言は帰って、あの方の腕の中で言うことね。私が何のためにわざわざ!こんな上にまで来たかはわかっているでしょう」

パシン! という明らかに何かしなるものが床に叩きつけられた音に歩みを止めざるを得ないセバスチャン。
やっぱりこのまま穏便に済ませてはくれないか、と振り返る。
そこには、今までのしとやかな淑女然とした彼女からは考えられない姿をしたビーナスがいた。 それこそマリアのような微笑みは変わらないのだが、長さのある鞭持って、裾をたくし上げたドレスの下から見える露わになった白い足には蛇が絡まっている姿があった。
その蛇が意思を持っているかのように、舌を出したのをセバスチャンは見た気がした。
いや、あの蛇は確かに意思を持っているのだ。
彼女の肌に住みつき、まるで装飾品のように彼女を飾る。
ある時は胸元を、ある時はその頬を。
いつも彼女の最愛の半身と同じ位置に蛇を飾って宴に参加していた。
目の前のビーナスは、彼女の影かと希望的観測を持っていたのだが、この肌に巣くう蛇が彼女が真実の彼女であると告げていた。
彼女が来た理由はもちろんわかっている。
ビーナスがわざわざ、彼女曰くの「美しくない」人間たちの世界に好き好んで出てくるとは到底考えられない。止むにやまれない事情がない限り、絶対に。
答えは『あの方』の堪忍袋の緒が切れたか、周りが我慢できなくなったかの二択だろう。

「……大人しく帰ってもらうことは…」
「それを私が許すと思うの?」
「…貴方の性格から無理でしょうね…」

セバスチャンはようやく、まともにビーナスに返事をした。
なるべく穏便に済ませたかったのだが、ビーナスが真実の"彼女"である以上、荒々しい手を使わないとならない。

「さぁ、私と帰ってもらうわよ」

ビーナスが鞭を構える。元から彼女は穏便に話が進むとは思っていなかったようだ。
嫌々対峙するセバスチャンにビーナスはおかしそうに笑った。

「あなたのその表情、久しぶりに見たわ。あなたに会いたいと思ったわけではないけれど、久々の再会っていうのもいいものね」
「私はできれば二度と会いたくなかったんですけどねぇ」

セバスチャンは、本当に嫌そうだ。
ころころと鈴がなるように笑っているのだが、一部の隙も見えないビーナス。
二人が全ての力でぶつかったら屋敷が半壊どころではなく、このブリテン島が沈むことになりかねない。 ここで始めるべきではなかったとセバスチャンが思った時だった。

「何をしている、おそいぞセバスチャン…レディ、ビーナス?」

玄関ホールへと階段を下りてくる小さな姿が見えた。
もちろんそれはこの館の主、シエルだ。
刹那、セバスチャンの視線がそれる。その隙を見逃さないビーナス。ニヤリと口の端が持ち上げられた。だが、ビーナスはセバスチャンへと攻撃を仕掛けることはなく、彼女の姿は一瞬のうちにシエルの元に飛ぶ。
しまった、そう思った時にはセバスチャンの体は動いていた。

「………ねぇ、あなたは本当に私が知っているあなたかしら?」

私、自分を疑ってしまうわ。とビーナスはため息を漏らす。
ビーナスはシエルを庇ったまま地に伏すセバスチャンの背に片足を乗せて小首をかしげた。
セバスチャンはビーナスがシエルに危害を加える前に庇うことはできたが、ビーナスから離れるには反応が遅すぎた。 結果、セバスチャンはまともにビーナスに蹴られ、そのまま床に突っ伏したのだ。

「うっ…」
「おい、セバスチャン! レディ、これはどういうことだ!!」

ぐっとセバスチャンの背を踏む足に力を加えたビーナスはシエルににっこりと夜会の時と同じように微笑みかけた。

「ごきげんよう、シエル様。お約束通り、商談をさせていただきに参りましたわ」
「これのどこが商談なのか、レディ」
「まぁシエル様。わたくし、確かにシエル様と商談をしたいとは申しましたが、おもちゃのお話だなんて一言も口にしてませんわ」

シエルの言葉にもビーナスは表情を崩さない。
セバスチャンは力を入れられた背が痛むのか少しうめき声をあげた。

「わたくしが故国へと持ち帰りたいのは、これ、ですわ」
「…セバスチャン、を?」
「セバスチャン…?…あはははははは!! あなた、そんな名前で呼ばれているの!?」

ビーナスは突然腹を抱えて笑い始めた。
その時に力が抜けたのか、セバスチャンがシエルごとビーナスの足下から這い出す。 ビーナスは気にせずに涙まで流して笑っている。

「あはははっ、ははっ…っ苦しいわ! 笑っちゃう…!! あなたがそんな名前っ!!」
「…ビーナスなんて神の名を自ら名乗っているあなたに笑われるなんて心外ですね」

セバスチャンは冷たい視線をビーナスに送るが、まだ彼女は笑い続けている。

「セバスチャン、おまえ彼女と知り合いか?」

シエルはいまだ事態を把握できていないが、とりあえずセバスチャンとビーナスが知り合いだということは理解できた。
主の問いにセバスチャンは苦虫をかみつぶした顔になる。

「………何といますか…知人、と言ったところでしょうか」

セバスチャンがシエルに答えると、ようやく笑いをおさめたビーナスがその言葉にかみついた。

「あら? かつては供に戦った私を知人、だなんて相変わらず薄情者ね」
「薄情者? あなたにだけは言われたくはありませんね。弟君以外に興味も情もないあなたにだけは」
「まぁ。あの時、あなたのところに援軍に駆け付けなかったことをまだ根に持っているの? 面倒な人ねぇ」
「今でも上にいた時のことを嫌みで言う人の言葉とは思えませんね、アスタルテ」
「あら、私の名前覚えていたのね?」

ビーナス、いや、セバスチャン曰くのアスタルテが目を細める。
その言葉を聞き咎めたのは、シエルだ。

「アスタルテ、だと…?」
「あら、シエル様も私の名前を御存じ?」

アスタルテ。それは異教の神の名前。
そしてシエルの国で奉じる神のもとでは悪魔として姿を変えた神だ。

「まさか…」
「…ぼっちゃんのご想像通りですよ」

シエルがセバスチャンに目線を配れば、彼は頭を下げてシエルの考えを肯定した。
最近、死神だの天使だのとこの世の者ではない者たちと接してきたセシルだが、セバスチャン以外の悪魔を見たのは初めてだった。

「で、ビーナスでもアスタルテでも構わないが、レディ。何をしに?」
「先ほども申しましたが、シエル様。わたくし、そこの“セバスチャン”を貰い受けに、いえ返してもらいに参りましたの」

アスタルテは何でもないことのように言った。
シエルは渋面を作って、セバスチャンに説明しろ、と視線で語ったがセバスチャンは沈黙したままだ。

「レディ、それはできない相談だ。これは私の犬だ」

シエルはきっぱりとアスタルテに宣言した。アスタルテの目が見開かれる。

「…犬、ねぇ…。あなたはどこに行っても誰かの犬ね。」

アスタルテが少し憐れみが籠った目でセバスチャンを見つめ、「そんなに飼い主が欲しいなら、やっぱり帰ってきなさいな。分かり切っているけれど、人間よりもあの方の方があなたの主人に相応しいわよ」 と続けた。
その言葉にようやくセバスチャンは反応した。

「…あの地で私は誰かの“犬”であった気はありませんが」
「…あの方を貶めるような発言はいくらあなたでも許さなくてよ」

二人のあいだに不穏な空気がただよう。
またもセバスチャンとアスタルテは構える。
シエルはいまいち話についていくことができずに、呆然としているが、ここが危険に迫っていることは感じていた。
だが。

「お前たちが本気でやり合うのはいつ以来だろうね」

朗々とした声が玄関ホールに響いた。
冷たい、と確かに感じるのに、いつまでも聞いていたくなるような不思議な声音だ。
シエルも戦闘態勢に入っていた二人もその声の主を探した。
彼の姿はすぐに見つかった。
玄関ホールから続く階段の手すりに彼は座っていた。
腰まである髪も瞳も、すべての光を吸い込んむほどの漆黒で、この世のものとは思えぬほどの美丈夫だった。

「げ、げ、げ…猊下!!!」
「やぁ、アスタルテ。ご苦労さま」
「やぁ!じゃありませんわ! あれだけお願いしましたのに、どうして上…猊下…私の半身はどこに…」

目に見えて焦り始めたアスタルテが最後の言葉を美丈夫に青ざめながら聞いた。
美丈夫は微笑んだまま、なんでもないことのように答えた。

「あぁ、アスタロトは私の部屋で寝ているよ。たぶん、しばらく目は覚まさないんじゃないかな」

その瞬間、アスタルテはその場から消えた。
シエルはあっけに取られたが、セバスチャンは微動だにせず美丈夫を見つめたままだ。

「アスタロト、千年は目覚めないでしょうね…」

どうして彼女が動いたのかようやくセバスチャンはわかった。
遊び相手がいなくなったこの目の前の美丈夫が、おそらく彼女の半身を自分の元に引きずり込んだろうのだ。
半身を解放するには以前の遊び相手を連れてくるしかないと踏んだのだろう。
この人の「遊び」はたちがわるい。
光の差さないあの世界で美丈夫の遊び相手をつとめたもので五体満足でいるのは自分くらいだ。

「さぁ、アスタルテがどうにかするんじゃないか? あれは半身のためにならラファエルだって連れてくるだろうからな」

ぼそりと呟いただけだった言葉に美丈夫が答えを返す。
たらりと米神に冷汗が伝ったのをセバスチャンは感じた。
久しぶりに見て感じる美丈夫の存在は毒のようだ。

「で、やっぱりお前が一番楽しめるよ。久しぶりだね、私の可愛い子」

あぁ、言葉はしごく穏やかなのに「どんな死に方がいいかな?」と言われているように感じる。
アスタルテならばどうにかできるかもしれなかったが、この美丈夫を相手に勝てる自身は満に一つの可能性もない。
シエルの魂を得るために契約を続行する覚悟はある。だが、彼がこちらに出てきた以上、この世界自体が存在していくことができるのか、そちらが心配になってくる。

「ごきげんよう、猊下」

精一杯いつもと同じような笑みを浮かべたのだが、この先のことを考えるだけで頭が痛くなるセバスチャンだった。

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