「で、お前は結局そうするのか」

心底呆れたように言われたけれど、彼は笑っていた。
誤解されることもあったが、彼は自分を含めた愛すべき仲間たちには過ぎるほど優しく、そしてとても大切にしてくれた。

「はい…迷ってたなんて、ただの言い訳だったんだと思います」

彼の瞳をまっすぐ見て告げれば、ため息をつかれる。
最後まで迷って、最後は捨てきれずに選んだ進学先。
それを知っているのは、目の前の彼だけだ。

「お前もつくづく頑固だ」

言葉よりももっと柔らかい声が告げた。
誰もいなくなった教室には、自分たち二人しかいない。
彼の肩越しには、三年間過ごした学び舎の校庭が広がっている。
桜の木々にはふっくらとしたつぼみが揃い、もう一月もすれば鮮やかな花を咲かせるだろう。

「あいつに愛想を尽かしたら、いつでも京都へおいで」

きっと来ないだろう未来なのに、笑って彼は逃げ道を与えてくれた。
腕に抱えた黒い筒には、ついさっきもらったばかりの卒業証書。
ああ、こんな風に彼と話すのも滅多にできなくなるのだ。
同い年なのにもうずっと大人みたいな顔をして自分たちを心配してくれた彼とは、こんな風に会えなくなるのだ。
それを思うと、とてもさみしかった。

「ではその時は、京都のおいしいものでもごちそうになりましょうか」

もし、彼の元へ行くようなことがあるとしたら、それは『彼』から最後を突き付けられた時だから、慰めにそんなことをしてくれと軽口を叩いてみる。
すると、彼は僕の言葉の意味するところを正確に理解していて、また大仰に肩をすくめた。

「お前たちは本当に…――――――」

今度こそ彼は呆れたようで、『彼』と僕に以前は毎日のように口にしていた言葉を送った。
それがなんだかとても嬉しくて、本当に久しぶりに、心から笑えた気がした。







「だいちゃんのぶわぁっつかああああああああああああ!!!!!」


桐皇学園高校の放課後の校庭に、この一か月ですでに馴染みの風景となった図が広がっていた。
その図とは鳴り物入りでバスケ部にスポーツ推薦で入学してきた青峰大輝を、その幼馴染でバスケ部のマネージャ―でもある桃井が部活へ引っ張るために探し回っている姿のことだった。
スポーツ推薦で入学したにも関わらず、青峰は一向に毎日の練習には出ようとしないし、練習試合にも出たりでなかったりと、とても推薦入学を果たした者とは思えぬ態度をとっていた。
しかし中学時代、全中大会を三連覇し「キセキの世代」の中でもエースと讃えられたその力は本物で、たとえ練習をせずとも、練習試合に出場すればその力を如何なく発揮していた。

「…しつけぇな」

その青峰は、自分を呼ぶ桃井の声を屋上で聞いていた。
屋上の出入り口の上に寝転がり、給水塔の影で涼をとりながら顔をゆがめた。
先ほど屋上へも探しにきたようだったが、青峰も彼女が来ることなんて簡単に予測できたから、今日はいつもより屋上へ来る時間を遅らせたのだ。

「あっちぃ」

けれど、青峰にも本当はわかっているのだ。
桃井が本気になれば、簡単に、とはいかなくとも必ず青峰を捕まえられることを。
だが例え桃井が青峰を毎日捕まえて、首に縄をつけてでも練習に引っ張って行っても、青峰は練習に参加しないだろう。
それをわかっているから桃井とて青峰を探すことは探すが、最後まで強制をしないのだ。
そんな青峰を、夏本番前とはいえ、強い日差しが襲う。腕を目に当てて、光を遮るが暑さはそうもいかない。
じりじりとした暑さが堪えて、これは近々避難場所を変えるべきかと考える。
強い陽光と澄み切った青空を眇めた目で睨み付ければ、いつまでも離れない面影が胸を焦がす。

「―――」

口に出すことすら躊躇われるほど大切な名は、やはり音にならなかった。
一番欲しい、この手につかみたい色がそこにある。
おもむろに手を伸ばしてみたが、当然それは空を切るばかりで、空に届くはずもない。
三年前の夏に出会って、二年前の夏に不協和音が始まって、一年前の夏にその色はなくなった。
自分で引き金を引いて終わりを手繰り寄せた。
自業自得だと、わかっている。
本当は探そうと動けば、いくらだって手立てはあるのだ。
今だって手元にある携帯のメモリには、一年前と変わらない名前と番号が登録してある。
けれど、それを使って会おうとしないのは青峰の臆病さゆえだ。
自分で手を放して散々傷つけたのに、自分を否定し、離れていくことをその口から直接聞きたくない。
なんて自分勝手。
桃井も、そしてかつてのキセキの世代の仲間たちもあきれ返るだろう。

「だりぃ」

青峰の思考は決まっていつもここで終わりになる。
敢えて拒否していたといった方が正しい。
のろのろと体を起こして、ズボンについた土を適当に払う。
先のことなんて考えていないけれど、今は一分一秒だって『彼女』とのことがすべて終わってしまったなんて認めたくはなかった。

「暇つぶしでもするか」

きっと『彼女』が聞いたら腕力すべてを使った拳をぶち込まれそうなことを呟いて、ひどく気だるげに歩き始める。
もう基礎練習も終わって、ミニゲームをやり始めている時間だ。
久しぶりにゲームに参加するのも悪くはない。
どうせストリートでやってもつまらないのだ。だったらまだ、部活のミニゲームの方が楽しめる。

『青峰くんよりすごい人なんてすぐ現れますよ』

いつものように呆れた顔で言った声は、記憶の中でもう既におぼろげだった。

「すぐっていつだよ…テツ」

やっと口に出せた名前は、縋りつくような音だったのを青峰は無理やり無視して体育館へと向かった。




「失礼しました」

礼儀正しくお辞儀をして退出の声をかければ、室内にいた教師のうち何人かはギョッとしてこちらを見た。
しかし日常茶飯事過ぎて、今更驚くことでもない。
高校に進学してからも相変わらず影の薄さは変わらないが、彼女―黒子テツナは、それ以外いたって普通の女子高生して日々を過ごしていた。
濃密に過ごした時はすでに遠く、もうすぐあの夏から一年が経とうとしていた。
彼らから離れて過ごした中学最後の学年は、精神にも周囲の環境にも波風が立たない穏やかな時間だった。
その間変わったことと言えば、黒子の髪の毛が少年のようなショートカットから少女らしいボブになったことくらいだ。

「…何をしてるんでしょうね、僕は」

自分の制服のスカートの裾が目に入る。
それは一年前の第一志望の誠凛の制服ではなく、土壇場になって変えた進学先の桐皇学園のものだ。
彼から最後通牒を突き付けられる前に逃げ出したくせに、それでもやっぱり傍に居たい気持ちは変わらなくて、結局選んだ進学先は彼と同じところだった。
けれどやはり彼のもとに現れることなんてできるはずもなく、ただ毎日を淡々と過ごしている。
ふ、と足が止まる。
なんのことはない、ここがバスケ部が使っている体育館のすぐそばだからだ。
放課後に黒子がこの場所へ自ら近づいたことなんて入学してから一度としてない。
けれど今日の日直は黒子で、正担任が出張のため体育教師の副担任のところまで日誌を持ってくる必要があったのだ。
そして体育教師たちがいる部屋は、何の因果かバスケ部が主に使用している体育館傍にあった。
ボールが体育館のコートを揺らす音。甲高いスチール音。
あの頃すぐそばにあった音が、黒子の足を止める。
と。

「ね、青峰来てるって!」
「うそぉ、さっき桃井さんがいつものことやってたけど」
「なんかその後、突然来たらしくって…」

バタバタと少し大人びた今日びの女子高生らしい女生徒が、覚えのある名前を呼びながら体育館へと走っていくところだ。
すると、一人の少女の言葉にかぶさるように何かが叩きつけられるような大きな音がして、大きな歓声が体育館から漏れ聞こえてくる。
彼だ―――。
瞬間的に黒子は思った。

「ほら早く!!」

女生徒たちは駆け出していく。
「ミニゲームでダンクかよ…」「知ってるけどほんとキセキって…」
彼女らの後姿を無意識に目で追ってしまうと、扉が開いたことで漏れ聞こえるゲームに出ていないバスケ部員の声。
どくり、と黒子の心臓が鳴った。
あの夏の日以来、黒子は彼のプレイを一度として見ていなかった。
桐皇に入学しても一度もだ。
彼のプレイが変わってしまったとか、そういう理由ではない。
むしろ彼の技術はきっと自分が最後に彼の試合を見た時よりももっと研ぎ澄まされているだろう。
けれど、勝利を手にした後の彼の諦めきった姿を見るのがつらかった。

「でも…」

まるで言い訳をするようにつぶやいた黒子は、進行方向を変えて体育館の扉に体を向ける。

「…君のプレイは大好きなんですよ、青峰君」

(そしてあなた自身のことも)

本当に伝えたいことは心の中でつぶやいて、黒子は体育館へと向かった。

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