1.熟れた慟哭
涙にぬれた慟哭を確かに聞いた。
泣いていた。
ためにため込んだ嘆きだった。
あれは―――。
「気がついた?」
うっすらと目を開ければ、綺麗な微笑みを浮かべた少女がいた。
その後ろにはまっ白い天井が見える。光に透けた木々の影が映っている。
日の光が存分に室内を照らしている清潔な室内。その中にふわりと消毒液の匂いがかぎ取れた。
「こ、こ」
うまく声がでない。
それでも少女は自分が何を言わんとしているかわかったようだ。
「ここはね、病院。あなた、もうずっと寝ていたのよ」
少女が真っ白なタオルを畳んで自分が寝ているベッドのすぐそばに置いた。
さて、と言って彼女が振り返る。
「命拾いをした名無しさん、さっそくだけどあなたのお名前教えてくれる?」
名前。
そう、俺の名前。
「そうよ〜。名前がないと不便じゃない。私たち、この三か月くらいあなたのこと“名無しさん”としか呼べなかったんだから」
鸚鵡返しにつぶやく。
名前、名前。
「俺、は…」
「うん?」
その先が続かなかった。
「あなた…」
いつまでも沈黙したままの自分に、彼女がみるみる顔を青くした。
そして硬い声で「先生、呼んでくるわ」と白い部屋を出ていく。
「なまえ…」
意味は理解できるのに、いつまでも自分の名前が思い出せない。
あの人の涙と嘆きはこんなにも綺麗に思い描けるのに。
あぁ、俺はいったい誰だろう。
あの人は熟れた慟哭の中、俺をなんと呼んでいたのだろうか?
2.誰の言葉
『あなたは馬鹿だ』
知ってる。自分でよくわかってるよ。
お前も一緒じゃないか。お前だって大馬鹿野郎だ。
でもな、俺はそんなお前が―――。
「あれー、お久しぶりですね!」
今の自分にとって、記憶の一番始まりにある少女が笑って手を挙げた。
「久しぶり、ちょっと近くまで来たからよってみたんだ」
いや、正確には始まりの記憶になるのはこの少女ではない。
声しか思い出せない、たぶん、記憶を失う前の自分にとってとても大切だった人の影がいつもある。
『あなたは馬鹿だ』
泣きそうな声で告げたあの人の表情はどんなものだったのだろうか?
「もう、こんなちょくちょくさぼってお仕事クビになっても知りませんよ」
「あははは、心配ありがとう。でもこれでも仕事はちゃんとやってるし、職場では重宝されているよ。いまのところね」
目覚めた俺の中に記憶はなかった。
この地上の小さな病院で目覚めて、それから回復を待って仕事を得た。
自分の身元に関する記憶はまったく思い出すことができないのに、いま現在仕事にしている工学系の知識に事欠くことはなかった。
さすがに本業の者には負けるが、小金を稼いで自分ひとりが食べていく分には不自由しないほどだ。
ましてやここらあたりは都市部から離れた田舎で、技術者があまりいなかったから、自分の存在は非常にありがたがられている。
「…何か…思い出しました?」
「いや……何も」
少女が手伝っている病院を退院してからもう一年。自分がここに運ばれて目覚めるまでに約一年。
合計すれば記憶を失って二年もの月日がたっていることになる。
「無理に思い出さない方がいいですよ…? いろいろあったけどせっかく一応“平和”な世界になったんですから」
「そう…なの、かな?」
綺麗に晴れ渡る空を見つめて少女は言った。
自分がここに運ばれてきた経緯はいまいちよくわからないらしい。
だが、とにかくその怪我は明らかに戦闘で負傷したものだったようだ。それゆえ少女は、自分のことを戦争で重傷を負い記憶を失った人、ということになっているらしい。
至極もっともな少女の見たてに何故か違和感を感じる自分がいる。
空を見つめている少女の目線はどこか遠くを見ている。
二年前はこの近くでも戦闘が行われていたらしい。
一応は平和な世界。
世界が統一されていく平和な世界。
そう、誰もが望んだ『平和』だ。
「…っ!!」
「! ちょっ、大丈夫ですか!?」
思考を襲う、強烈な痛み。
どうしてだろうか、この『平和な世界』のことを考えると頭が痛くなるのだ。
それは警報のように脳天をつく。
「だ、大丈夫…よくあることだから」
「よくあるって…先生に診てもらっていったらどうですか? いまなら患者さんもいないですから」
大丈夫だから。
そう笑って告げても少女はまだ不安そうな表情を崩さなかった。
安心させるようにその頭に手をのせて、心配ありがとう、と己の気持ちを伝える。
さっきの痛みの瞬間。
『あなたは馬鹿だ』
泣きそうに笑った、あの人の綺麗な口元を思い出した。
3.ワルディーの昼下がり
「雨か…」
ドアをくぐれば身を切られるような寒さが襲った。
見上げた空は鉛色よりもひどい色で、その雲の一端が今にも地上に落ちそうなほど低いところにあった。
「さっむいなぁ」
傘をさしてぼやきながら道を歩く。
あまりに寒くて、手袋をしているのにその上から息を吹きかけてみる。
時刻は昼下がり。いつもならば一日で最も暖かな日差しが降り注ぐ時である。
しかし、まるで自分を歓迎していないかのように冷たい雨は降り続いている。
仕事でこの国に入ってからずっとこんな天気が続いているのだ。
「…お前は、馬鹿だ」
ぽつりと呟くのは、先日から頭の中で何度もリフレインするあの人の姿に確かに自分が思った言葉。
たぶん。いいや、絶対に。
あの人が自分にとって誰よりも大切だった人には違いないと思う。
なぜなら己に関することは全て忘れ去っても、あの人のことはこんなにも強く思っているんだから。
『あなたが、好きです』
思い出すのは少し薄い唇の口元と、耳に心地よいアルトの声音。
いっこうに名前や表情など、そういうものは思いだせないのに様々なことを告げる言葉ばかり思いだす。
自分が目を覚まして仕事を得てから三年がたつのだ。自分がその人の元を離れてかれこれ四年になる。
そんなに長い間離れていて、連絡の一つも寄こさない自分のことなど愛想を尽かしてしまっているかもしれない。
だが何故だか、あの人はどんなになっても自分を待っているような気がしてならないのだ。
「ちょっと、そこのカッコイイお兄さん! 仕事帰り? 恋人へのプレゼントにどうだい」
もんもんと悩みながら足を動かしていると、威勢のいいおばさんと言っても差し支えのない年程の女性に声を掛けられた。
彼女は店にある色とりどりの花の中でも、綺麗に輝いている薔薇をさしながら人好きのする笑みを浮かべている。
「悪いね、俺一人もんでさ」
「おやまぁ、若くていい男なのにもったいない!」
あたしがもう二十歳若ければねぇ、なんて言う彼女に苦笑したが、ふと、作業の最中についたのか、花弁に水滴がついた真っ赤な薔薇が目に付いた。
真っ赤な、真っ赤な薔薇が、まるで涙を流しているようにも見える。
「あら、お兄さん、その薔薇が気にいったんかい?」
「い、や…そういう」
何故だか目線をそらすことができずにいれば、自分がそれを気にいったのだと思った彼女は喜々として売り込みを始める。
「その薔薇、ルビーリップスっていうんだ。綺麗な赤色だからねぇ、それでルビーとでも名づけられたんだろうね」
リップスの由来までは知らないけどね、と彼女が続けた時に、とっさに声が出ていた。
ルビーの唇という名をもつ薔薇。
知らない花は、見知った造形に変わる。
「目だ…唇じゃない」
「目?」
あぁ、そうだ。
心臓が早鐘を打ち、体中の血がものすごい勢いで隅々まで駆け巡る。
呆然としながら言う俺に、女性はいぶかしげな声を出す。
そう、目だ。
ルビー色をしていたのは、唇じゃない。
目。
綺麗に澄んで、見上げてきたそのルビーのような瞳を確かに覚えている。
『ロックオン』
俺にだけ見せてくれるあの人―ティエリアのはにかんだ微笑み。
我慢して我慢して、堪え切れなかった末にルビーの瞳から流れる一筋の涙。
「ティエリア…」
ため息に交じって呟いた名が全て。
そうして、その人の名と共にすべての記憶が蘇った。
4.きっとあなたに会いにゆく
「よぉ、久しぶり…でもない、か」
四年でたまった荷物をまとめていると、軽いノックと共に今の自分と親しくしていた病院の少女が現れた。
いつも明るい彼女にしては、どこか悲しげな表情をしている。
「やっぱり、思い出したんだね」
「…気づいてたのか?」
「なんとなく。なんか、顔つきが違った、って感じがして」
諦め、とも違う声で少女は笑った。
どうにも引き留めに来た、というわけではないらしい。
どうすることもできずに、ただ居心地が悪く目を泳がせる。
優しい子。優しい人たち。
ここで出会った人たちは、氏素性もろくにしれない自分にとてもよくしてくれた。
本当に、嬉しくてありがたかった。
だから、これから先自分がここにいたことで彼らに迷惑をかけることを恐れた。
だからこそ、誰にも何も言わずにひっそりといなくなるつもりだったのに。
「仕事、どうするの?」
「…辞めるよ。辞表は郵送する」
もしも自分が仕事を辞めるとなれば、この小さなコミュニティでは大騒ぎになることは間違いない。
不義理だということは重々承知しているが、ここにいた痕跡を残さないためには、何も告げずに去ることが最適だと思ったのだ。
「………それは、私たちに迷惑をかけないため?」
「…いいや、俺のわがままだ」
何故だかわからないが、この少女には全てを見透かされているような気がしてならない。
でも決して自分がそれを認めるわけにはいかないのだ。
「ね、ずっとここにいるってこと、できないのかな?」
無理だって、わかってるんだけど、と少女は言った。
だからこんな言葉言うつもりなかったけど、なんだかもう会えないんじゃないかって思ったらさ。
続けられた少女の言葉は限りなく真実だ。
「…無理なんだ」
「どうしても?」
「どうしても」
それは何故?と少女の表情が言っていた。
自分があそこへ戻る理由。
それは四年前に選びきれなかった大義のため。それは己の手で始めたことへのけじめのため。
そして。
「待ってるやつがいるんだ」
『ロックオン』
耳に残る、甘い声。
あの人に、もう一度会いたい。
そう、思ったから。
「だから、俺はいくよ」
だから。
全てが終わる、その前に。
きっと、俺はお前に会いにゆく。
5.とわに
『生体コード確認。マイスター、ロックオン・ストラトス』
俺は笑った。
認証コードが四年前そのままで、ゲートはいとも簡単にその道を開けた。
まったく不用心だな、なんて呟きつつ、懐かしい廊下を進む。
さきほどハッチを見たが、見慣れぬ4機のガンダムが鎮座しているだけで人の姿はなかった。だから、たぶん一同がブリッチに集まっているのではないかと目星をつけた。
慣れた道を行けば、すぐに目的の場所につく。
高鳴る鼓動は抑えられるはずもなかった。
『ロックオン、ロックオン! ロックオン』
「おい、ハロ。俺はここにいるだろうが」
「このハロには調整が必要ではないのか?」
「……この前、沙慈・クロスロードが点検をしたばかりだ」
「君の扱いが粗雑だったからまた必要になったんじゃないか?」
「ちょ、ティエリア!」
「おいおい、そりゃ……」
ぱしゅり、と音を立てて扉は開いたはずなのだか、ハロの声がそれをかき消していたらしい。
ややあって、ようやく扉が開いた先で、こちらに向かっていた、自分と瓜二つの男が目を見開いて言葉を失っている。
続いて、あの頃よりも背も伸びて逞しくなった感が強い刹那が驚愕と言っていい表情を見せ、いつも隠れていた片目を見せたアレルヤが呆けている。
他のクルーたちも視線をこちらに向けて目を大きくしているが、誰からも声があがらなかった。
というより、声をだしたくても驚き過ぎて出ていないというところか。
そして。
「…なにを呆けているんです」
みなの表情にいぶかしげな声を出した、唯一扉に背を向けていたあの人が、ゆっくりと振り返る。
懐かしい、人だ。
会いたかった、人だ。
あの頃と少しも変わらないあの人は、始め微動だにしなかった。
だから、言った。
「ただいま、ティエリア」
行ってきます、なんて4年前言ったわけじゃない。
でも、いまの気持ちを表現するならこの言葉しかなかった。
そうして、ティエリアの目がみるみるうちに緩み始め、そして。
「ロックオン!!」
胸に飛び込んできた華奢な体をきつく、精一杯抱き締めた。
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