「はい! 約束ですからね、芦花」
「ええ、お約束いたします」
愛らしい天子と美しい黎夫人が指をきる姿は、まるで絵画のようで、見ている人々、中華連邦側の貴族たちの心を和ませた。
そう、あくまで、中華連邦側の貴族たちだけの心をだ。
スザクを始めとする第一皇子オデュッセウス、ブリタニア貴族たちは驚愕の表情で黎夫人の顔を見つめていた。
その視線に気づいたのか、夫人の体を慮ったのか、星刻は夫人に腰を上げるように促した。夫人は、周囲から注がれる視線にも気付いていないのだろう、呆れた視線を夫へと向けた。
「星刻…それほど、私の体は信用がないか?」
「信用していないわけではない。心配なだけだ。私には代わることはできないからな」
星刻は、エリア11でついぞ見たこともない柔らかな微笑みを見せて、夫人の頬に手をやり滑らかな黒髪に指を通す。そして、その膨らんだに視線を落とす。夫人もつられて自分の腹を見て、天子の前でして見せたように細い手でそこを撫でた。
慈愛に満ちた所作だ。
二人の想いが色濃く現れた雰囲気に、天使は先ほどまでの硬さが嘘のようにほころんだ表情を作った。だが、その表情は自分と同じ主賓席からやって来た者の靴音のため固まった。
夫となるオデュッセウスが自分を追ってきたのだと思ったが、振り返った先にあった彼の視線は天子が姉のように慕っている芦花に注がれていた。
「ルルーシュ、かい?」
こわごわと言った様子だった。
その緊張した様子はただ事ではなく、天子が周囲を見てみれば、先ほどまでは和やかであった会場の空気が、一変していた。それこそ、神楽耶がゼロを伴って現れた時と同じようにだ。
「ルルーシュ」と、声を掛けられた芦花は始め驚きに目を見開いたが、すぐに困惑した表情を見せて夫を見やった。その驚きは、ブリタニアの第一皇子が突然話しかけてきたからに他ならない。
星刻は、不安げに瞳を揺らして体を寄せた妻に、もう一度微笑むと、すぐに公人の表情を作って膝をついた。
「恐れながら、オデュッセウス殿下。こちらは、我が妻、芦花にございます。お人違いかと」
そうしてちらりと星刻が芦花に目線をやれば、夫の意を心得た夫人が片足を引き軽く膝を曲げた。流れるような動きだった。
「このように無作法な挨拶をお許しください、オデュッセウス殿下。黎星刻の妻、芦花と申します」
堂々とした姿は、さすが大司馬を務める黎星刻の妻というところ。超大国の皇子にも怯むことはなかった。
その挨拶に見ほれてしまったオデュッセウスだが、間近で見た芦花の顔により一層、死んだはずの異母妹の面影を見た。
9年も前に故国を出た異母妹で、オデュッセウスはルルーシュとあまり顔を合わせることはなかった。それでも、芦花を見てすぐにルルーシュを思い出したのは、その母である人ならばよく知っていたからだ。
父皇帝の妃であったルルーシュの母マリアンヌに芦花はそっくだった。
確か、ルルーシュやマリアンヌとはシュナイゼルが親交を深くしていたとオデュッセウスはすぐそばにいるはずのシュナイゼルの姿を横目で探した。
オデュッセウスは自分があまり優秀でないことを理解していたし、才ある異母弟が宰相を務めている状況にも文句はなかった。むしろ感謝さえしていた。どんな困難も必ず解決していくその手腕と、穏やかな人柄を尊敬すらしていた。
その心が、ひどい虚無を抱えていると何とはなしに気づいていても。
「芦花どの、とおっしゃるのか…」
オデュッセウスは芦花に言葉を返しつつ、視線の端にとらえたシュナイゼルの表情に驚きを隠せなかった。
それは、シュナイゼルの表情が身に抱える虚無を映しだしたかのように何の感情も浮かべていなかったからだ。その無表情にオデュッセウスは驚いたが、「弟も人間だったか…」とどこかで不思議と安堵していた。
異母兄の視線に気づいたシュナイゼルは、すぐに笑みを乗せた。一瞬の無表情は、オデュッセウスしか気づかなかっただろう。オデュッセウスの視線を探して、芦花や立ち上がった星刻もシュナイゼルに目を向けた。
「兄上、何を言っているのですか。ルルーシュは9年前に死にました。気持はわかりますが…」
まるで仕方ないというように、シュナイゼルは言った。近づいてきた彼は、黎夫妻のすぐそばまで来ると眉尻を下げて「申し訳ない」と口を開く。
「私たちには9年前に亡くしたルルーシュという妹がおりましてね。夫人がその妹にあまりに似ていたので、兄上も思わず確かめたくなってしまったようです。そうですよね、兄上?」
「…ああ、ルルーシュによく似ていたからね。驚かせてしまってすまないことをした、黎夫人」
シュナイゼルの一瞬の無表情が気になったオデュッセウスだが、有無を言わせぬ言いように返答を合わせた。
「いいえ、滅相もありません。…そうだったのですか…妹君を」
そう二人の言葉に、芦花は痛ましげな表情を作った。
憂いを帯びた表情も美しいもので、周囲の人々は芦花の素性に未だ疑問を持つブリタニア貴族たちもその美貌に見とれた。
「みなさん、どうやら私の勘違いだったようだ。場を乱してしまい申し訳ない。黎夫人にも重ねて詫びよう」
オデュッセウスが会場に呼びかけると、先ほどまであった奇妙な緊張感は表面上なくなったように見えた。だが、黎夫人・芦花に集まる視線は耐えることがなかった。
「ルルーシュ殿下といえば、あのマリアンヌ皇妃がお産みになった皇女殿下で、ナナリー総督が探してらっしゃる方ですよね、ロイドさん」
「そうだよ。”あの”マリアンヌ皇妃が産んだ姉妹皇女の一人。幼いころから頭脳明晰と誉れたかかったねぇ。」
オデュッセウスやシュナイゼルとしばし歓談した後、天子と夫と共に中華連邦貴族たちと談笑する芦花を少し離れた場所から眺めるのは、セシルとロイドだ。
セシルは記憶のかなたにあった皇妃と皇女のことを思い出しながらロイドに聞く。平民から妃に召し上げられた騎士候としてマリアンヌ、およびその娘たちの名は帝国でも有名だ。
だが、彼女らはあまり表立った舞台に上がらないうちにその命を落としたため、セシルのように貴族社会と関わりのない人々の間で彼女たちの印象は薄かった。
ナナリー皇女が悪名高いエリア11の総督として皇族に復帰した際に、九年ぶりに彼女たちの名を思い出したくらいだ。
しかし、ロイドは違う。名門といわれるアスプルント伯爵であり、自身も生前の皇妃や皇女と少なからず面識がある。
彼は意味深な視線を、微笑む黎夫人に向ける。
「もしエリア11で死んでいなければ、今頃は18歳。黎夫人も同じくらいだよねぇ」
「ロイドさん!」
中華連邦でも高い位置にいる星刻の、それも先ほどその星刻自身がルルーシュとは別人だと断言した妻に向って失礼な言いようだろうと、少しばかり慌ててた。
しかし、セシルも好奇心が勝るようで、いささか小声でロイドに尋ねた。
「…でもルルーシュ殿下はエリア11で亡くなったんですか? ナナリー総督もエリア11で生きていらしたということですが、あまり詳しくは発表されていなかったので…」
「ああ、そこらへんは公式発表でも曖昧にされてたからね。
ルルーシュ皇女殿下、そして妹君のナナリー皇女殿下は、マリアンヌ皇妃が亡くなった後、友好の証として当時の日本、今のエリア11に留学することになった。
それで当時の日本国首相、枢木首相に預けられて、…そのまま…ね」
からかうような笑みさえ乗せてロイドが語った真実に、セシルは青ざめた。皇女たちが亡くなった理由の詳細はわからないが、帝国の恐ろしさをひしひしと感じたからだ。
皇女が、戦闘に巻き込まれて死んだのか、それともエリア11の兵の手によって亡くなったのかはわからない。
だが、九年前に当時の日本へ皇室の皇女を預けることになった時点で、彼女たちは皇室から見捨てられたと言ってもいい。
おそらく皇女たちの日本送致を決定したのは皇帝自身だろう。
娘すら道具のように扱う自国の皇帝にセシルは寒気を覚えた。しかし、ロイドの話でセシルの中で今まで疑問だったことが一つ解決された。
「だから、ナナリー総督はスザク君を慕ってらっしゃったんですね…」
セシルには、ナナリー皇女がなぜスザクに対して信頼を置いているのか理由までは知らなかったがロイドの話で合点がいった。そして、もう一つの事実をロイドにぶつけた。
「…じゃあ、スザク君はルルーシュ殿下とも面識が?」
「まあ、あそこまでナナリー総督がスザク君と親しいんだから当然だろうね」
ロイドは含み笑いをしながら、少し離れたところで呆然と立ちすくんでいるスザクの後ろ姿を見やった。
「やはり室内は少し暑いな」
芦花は夜の空気を胸一杯に吸い込みながら、露台の欄干に手をおいた。やはり、人が詰めかけている室内は息が詰まるような気持がする。
ひんやりと火照った体には心地よい空気を楽しんでいると、露台に出た芦花を追って来たのだろう星刻が後ろに立つ気配がした。
もうずいぶん慣れたその気配が、無言で長い腕を芦花に巻きつけた。
「暑いから外に出てきたのに、これでは意味がないだろう」
くすくすと笑いつつも、芦花はその腕を振り払わなかった。欄干に乗せていた手を、腰から腹に巻きついた手に重ねる。
そうすると、星刻は首筋にうずめていた顔をあげて芦花の耳元に唇を寄せた。芦花も答えるように、自然に重ねた手の指を星刻のそれと絡めて身をよじり、一層星刻に体を寄せた。
「芦花…」
吐息に交じって、星刻が芦花の名を呟く。
万感の想いが込められていると分かる掠れたその声。
芦花には、いったい夫が何を思って想いの丈を常に名に刻むのかはわからなかった。ただ、失ってしまった自分の記憶が夫にそうさせているのだとは思う。
ルルーシュ、と帝国の第一皇子と第二皇子が自分を呼んだことは何か関係あるのかもしれない。
自分のことだ、芦花だとて失った記憶が気にならないわけではない。
だが、今。
芦花にとって一番大切なことは、心から愛した夫との間にできた腹の子のことと、夫と自分が主と敬う天子の幸せのことだった。
「星刻…天子さまの傍にいて差し上げろ」
星刻は、絡めた指の先をぴくっと動かす。心ではさっきから天子のことが気がかりだったのだろう。
だが身重の芦花のことも気がかりで露台に出てきてしまったというところか。
「しかし…」
「私はもう疲れた。すぐに車を手配して帰るから」
「な?」とダメ押しのように芦花が首を傾げれば、星刻はため息をついた。
そして絡めていた指を解き芦花の白い顎先に手をやり、その色づいた唇に口付けをひとつ落とす。
「先に休んでいろ。きっと今夜は帰れないだろうから」
明日は天子の結婚式。
常日頃から現在の国の在り方に疑問を持っていた星刻が、黙っているとは思えない。
星刻は芦花に何も告げていない。けれど、芦花にはわかっていた。星刻が明日、何かを起こすと。
「…では明日、天子様の御式で」
「………ああ」
星刻は体を離して名残惜しげに芦花の黒髪をすくと、露台から去った。
その背が室内へと消えたのを見送った芦花は、再び欄干に手をかけて広大な洛陽の街を見下ろした。
芦花の記憶があるのはここ一年のことだけ。
自分がどこの誰であったか、気にならないわけではない。
けれど、何故か記憶を思い出すのは怖かった。
記憶は全くないが、その記憶を取り戻せば自分はここにいられないような気がしたからだ。
真摯な愛を囁いて、まるで真綿にくるむように自分を守ってくれる愛しい夫や自分を姉のように慕ってくれる天子。
そして何より、これから星刻と腹の子で過ごすはずの優しい時間。
その全てを手放さなければならないと、心のどこかで感じていたからだった。
「ルルーシュ…」
「え?」
物思いに沈む芦花を現実に引き戻したのは、先ほどオデュッセウスが自分に呼びかけた名だった。
不思議に思って芦花が振り返った先には、ブリタニア帝国が誇る最強の騎士、ナイトオブラウンズの制服を纏った男がいた。夫である星刻よりは年下の、茶色い髪をした青年だった。
悲しいのか、怒っているのか、複雑な色をした緑の瞳がひどく印象的だ。
「どうして…どうして君はそんな風に…」
怪訝な表情を浮かべた芦花だが、泣き出しそうにも見えるその青年が哀れだと思った。
何故だか彼に対してとても申し訳ないような気持にもなった。
「あの…」
「どうして君は! どうして君がそんな風に笑うんだ! ユフィを殺した君が!!」
叫んだ青年は、芦花の両肩を強い力でわし掴みにした。その強さは、骨が軋むほどで芦花は顔をゆがめる。
いったい何を青年が言っているのか皆目わからなくて、芦花は戸惑う。
だが、『ユフィ』という言葉に芦花の胸は棘が刺さったように痛んだ。
「なんで、君はこんな風に生きてるんだ…。どうして君は幸せそうに笑って暮らしているんだ!!」
芦花が口をはさむ暇もなく、青年は一方的に芦花を責めたてた。
どうして、と繰り返す青年に対して、突然の無礼を働かれたという怒りはあった。だが、それよりもその表情がひどく哀れで、何がこの人を悲しませているのか気になってしまった。
だから、「放せ」という言葉も出てこなかった。
だが。
「どうし、っ!!」
「その手を放してもらおうか、クルルギ卿」
青年の手をわしづかみ、剣のような声音をかけるものがいた。
「星刻…」
それは、先ほど露台を去ったはずの夫だった。芦花は、自分でもひどく安堵した声音でその名を呟いていた。
星刻の手が芦花の肩から青年の手を乱暴に振り払い、芦花を自分の傍に抱きよせた。
「帝国でも誉れ高いナイトオブラウンズの所業とは思えませんな、クルルギ卿。我が妻にいったるいなにようですか?」
聞いたこともないほど冷たい声と酷薄な瞳を青年へ向ける星刻の姿に、芦花はしばし呆然として夫を見ていた。
冷たい言葉と瞳の星刻だったが、何故か芦花の腰を抱いた彼の腕は小刻みに震えていて、余計に芦花を混乱させた。
「『芦花』ですって? 何を言っているんですか…俺が彼女を間違うはずはない」
挑むように青年は星刻をにらんだ。その視線はちらりと芦花へもよこされる。
「ルルーシュ、だというのか? オデュッセウス皇子が人違いをされた皇女…。何を馬鹿な。その皇女殿下は亡くなったのであろう。そう仰ったのはそちらのシュナイゼル皇子だ」
鼻で笑うような星刻の言いようと言葉は容赦がなかった。
「それは…」
「シュナイゼル皇子より先ほど今一度謝罪を受けた。つまらない人違いをして、妻の気を害してすまなかった、と。その言葉、帝国の臣である貴殿が否定するか?」
先ほどまで威勢のよかった青年の語気は明らかにしぼんでいた。それは皇子の言葉を覆すことは臣下にできないからだ。青年は悔しそうに唇をかんだが、頭を下げた。
「夫人、申し訳ありませんでした。…知っている方にあまりにも似ていたため、取り乱してしまいました」
言葉に感情がこもっていないことは明らかで、謝罪は形式だけのものだ。
青年が納得していないことがありありとわかる。
「いえ……」
謝罪を受けた芦花は、ただ戸惑うばかりでそれしか答えを返せなかった。
「…次はないと思え」
星刻は、冴え冴えとした最後通告を突きつけると芦花の腰を抱いて、祝宴が行われている大広間とは別の部屋に続く出入り口に足を向けた。
それに戸惑いつつ、少しばかり気になってちらりと芦花が後ろを見やれば顔をあげた青年は恐ろしいほど苛烈な視線を自分たちに注いでいた。
その瞳が、何かを思い出させるように芦花の脳裏をよぎる。
『―――ッ―!!!!!』
憎悪に滲む緑の瞳。荒げた叫び声。
そして、銃声。
「ッ!」
「芦花!?」
芦花は、思わず立ち止まった。自分でも血の気が引いていくのがわかる。
露台から去った二人が入った室内は、明かりが落ちた人気のない場所だった。突然、様子が変わった芦花に驚いた星刻は驚いて声をあげた。
「どうした? 気分でも悪くなったか?」
「星刻…」
気づかわしげに自分の頬に手をやる星刻の体温が心地よい。
先ほど脳裏をよぎったものが、芦花の体温を奪っていたが、まるで星刻の手がそれを与えてくれているようだった。
芦花がすがるようにその手に自分の手を重ねて更に頬を押し付けると、星刻は背後から芦花を抱き締めた。
「…何も不安に思うことはない…。何も…」
星刻は芦花が力を抜いた手の指を絡めると、ぎゅっと二度と解かれることを恐れるかのような強さで握りしめる。
芦花も同じくらいの強さでその手を握り締めた。
ただ、芦花は怖かった。
さきほど脳裏をよぎったことが、何かの引き金になってしまうことが。
だから、芦花は星刻に懇願する。
「私を離さないでくれ…。ずっとずっと、おまえの傍に…」
「もちろんだ…。お前は私の、たった一人の妻だ」
もしかしたら明日にも破られることになるかも知れぬ約束だと、口にはせずとも互いにわかっていた。
ただ二人の永久を願う心は、その時互いに真実であった。
「星刻…」
「芦花」
吐息にまぎれて互いの名を呼び、二人は誓いのような口付けを交わした。
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