その夜は、冷たい雨が降っていた。

「マリアンヌ…」

私の声は自分でもそれと分かるほど、みっともなく震えていた。
宮殿内にある小さな礼拝堂に安置されたマリアンヌの遺体は、棺の中で多くの花に囲まれまるで眠っているようだった。
礼拝堂の中は、蝋燭の自然な光だけで照らされていてマリアンヌの顔色も常と変わらないように見える。
だが、そっと触れた彼女の頬から血の温かみが感じられないことが、確かに彼女の魂はこの体にないということを知らしめる。

「マリアンヌ…」

ただ、彼女の名以外に言葉を発せられなかった。
胸を駆け巡るのは憤りだけ。
彼女をみすみす父の元に行かせるしかなかった非力だった自分への。
こうなる前に父を皇帝の座から引きずり降ろさなかった自分への。
そして何より。
宮廷こそが伏魔殿だと知っていながら、そこで彼女を守ろうとすらしなかった父への。

「目を…マリアンヌ…どうか、目を」

もし彼女がもう一度目を開けてくれるなら、悪魔とだって取引する。
そうしたら、今度こそ自分が真綿に包むようにして絶対に誰にも傷つけさせない。
例え、至高の存在と言われる父に背くことだとしても、今度こそ傍から離しはしない。
なんの力も持たなかったあのころの自分ではないから。

だから。

「もう一度、目を…開けてくれっ」

彼女の手を取り祈るように見守っても、願いは聞き届けられしない。
艶めく黒髪も、透けるような白い肌も、変わってはいない。
けれど、死化粧によって施されたのであろう毒々しいまでの口の紅は、私の知る彼女の唇でなかった。
彼女は余り化粧の類を好まず、騎士侯の頃から殆どの場合素顔で通していた。それは皇妃になっても変わらず、うっすらと白粉をはたく程度だったのだ。
唇の紅に彼女の死をまざまざと見せつけれたような気がして、私はそれを指で拭った。

「紅などささずとも、お前の唇は十分魅力的だ…」

答えなど返ってくるはずもないが、随分前に彼女に告げた言葉を呟く。
あの時、彼女は『まぁ。殿下は女を褒めることがお上手ですね。ですが、そのようなお言葉は意中の方だけにお言いなってください』と、笑った。本気で思ったから、告げたのに、彼女は戯言だと一笑して。
その意中の彼女だから告げたのに。
あれから随分、私たちは遠いところに来てしまった。
こんな結末を迎えるはずではなかった。
描いていた未来は、とても明るく、その日がいつか来るのだと信じていた。

「とんだ御伽噺になってしまったな」

あの頃、彼女に語った未来は子供に聞かせる童話のようにただ幸せに満ちていた。
ふと、本当の御伽噺の中に恋する相手の口付けによって目覚める姫の話を思い出す。

「これで、お前が目覚めるならば…今度こそ2人で……」

不可能な未来だと分かっていても、そう告げて目を閉じて彼女に口付けた。

最後の口付けは酷く冷たく、御伽噺が実現することはなかった。


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