これは夢だ。
泣きたくなるほど幸せだけれど、夢だと分かっているから同時に胸が引きちぎられるように痛む。

『お姉さま、そんなにそわそわしても時計は正確な時間しか刻みませんよ』

じとっとした、というよりは生ぬるい視線を向ける妹。
ふわふわの髪を結っていた手が止まっているのを見逃さず、少し呆れたように、時計ばかり気にする私をなじる。

『ふふふ!ルルーシュったら、そーんな気にしちゃって!』

ぷー、くすくす!と、それが高校生の娘がいる母親とは思えないほど子供っぽく笑うのは、変わらぬ美貌を誇る母。

『…ルルーシュ、そんなにぼうっとするなんて風邪でも引いたんじゃないか?やっぱり今日の外出は取りやめた方がいいんじゃないかな?』

にっこりと輝く笑顔を向けて告げるのは異母兄だ。
母は何が面白いのか、異母兄の言葉に腹を抱えて笑い始めた。
私と言えば、異母兄のそんな言葉はいつものように無視して、先ほどから気にしている時計をもう一度見てしまう。
約束の時間はもう間もなく。
思わず秒針の動きに目をやってしまうが、来客を告げるベルが鳴ったのはそれと同時。
弾かれたように私は、妹の髪から手を滑らせて玄関へ向かう。

『まあ、ルルーシュったら本当に、―さんが好きなのねえ』
『…もう少し、私だけのお姉さまでいてほしかったのに』

母と妹の声が背に聞こえるけれど、私は前しか見えていなかった。

『ナナリーもこう言っていることだし…』

二人に異母兄がまだ何か言っているようだったけれど、聞こえないふりをした。
玄関まで走って、はっとする。
こんな息を切らせてるなんて、まるで、私が熱烈に待っていたみたいじゃないか。
実際、そうなのだけれどそれを悟らせるのは少し悔しい。
扉を開ける前に、深く息を吸い込む。
でもこんな小細工をしたって、きっと少し年上のこの人にはすぐにばれてしまうだろうけれど。
私ははやる気持ちを抑えて、ドアの扉を―――。




扉の隙間から光が漏れた瞬間、ぱちりとルルーシュは目を覚ました。
いまルルーシュの目に映るのは、群青の夜空に浮かぶ星たちだ。
太陽宮の中にある湖のほとり、考え事をしているうちにルルーシュは転寝をしていたらしい。
柔かな緑を背に、もういちどルルーシュは瞳を閉じた。

「夢か…」

言葉にして確認しなくとも、ルルーシュは自分が置かれた現実をしっかりと覚えていた。
あえて言葉にしたのは、未練がましい己を戒めるためだったのかもしれない。
幸せだった。
怖いくらいに、幸せだった。
夢の内容は鮮明に思い出せた。
私にはかわいい妹と今は全寮制の中学に通っている弟がいて、姉のようにしか見えない若々しい母がいて。
時々よりも頻繁に、ほぼ完全無欠の異母兄が自宅にいる。
その日も、異母兄が朝から我が家に居座っていたけれど、でもルルーシュは別のことに気を取られいて、いつも異母兄がしかけてくる言葉遊びにのる余裕すらなかった。
その時、誰をおもって、誰を待っていたのか。
自分の心が誰よりよく知っていた。

「いまさら、何を夢見ているのか」

呟く声が震えるのを、どこか遠くで聞いているような気分だった。
見ることはかなわなかったけれど、夢の中の自分が開けた扉の先には、きっと彼―黎星刻がいるはずだ。
穏やかな微笑みをたたえて、今度こそルルーシュだけをその瞳に映して待っている。
それは夢だ。
この世では決して叶う筈のない夢であり、何度だって思い描いては打ち消してきたルルーシュの願望だった。
瞳を開ければ、そこには満点の星空が広がる。
ふ、とルルーシュの脳裏によみがえる異なる星空がある。
無意識にルルーシュの手は自らの首元にある鎖をたぐりよせた。
細い金属の音が静寂の中に響き、ルルーシュは体を起こして掌に握りこんだものを見つめた。

「馬鹿な男…」

華奢な銀の指輪は、あの日、男から送られたものだった。
いつもと変わったところなんて少しもなかったのに、じゃれるようにルルーシュの手をとって、この指輪をルルーシュに送った。
本当は泣きたくなるくらい嬉しくて、すべてを捨ててどこかへ行けたらどれほどいいだろうと思った。
けれど、すべて捨てて逃げ出したところで自分が幸せになれないことも、何より、目の前の男がそんなことを自らに許しはしないことを、ルルーシュ自身がよく知っていた。
黎星刻という男が好きだった。
例えようもなく、愛していた。
融通の利かなさも、まっすぐにしか生きられない不器用さも、男を形成する性質すべてを愛していた。
ルルーシュは、己が歩いてきた道の選択を後悔したことはない。
ブリタニアを解体し、最愛の妹が安心してくらせる世界を手に入れ、母の仇をうつ。
焦土の中、あの日誓ったことを実現させるために、この半生を注ぎ込んだ。
それに後悔はないし、いま形は違えども誓いを成就させつつあることに満足さえある。
だが、心のどこかで、愛した男とまったく別の人生を歩めたらと思うことを止められなかった。

『返事は全てが終わったら聞かせてくれ』

この指輪を渡されたとき、男はそう言った。

『今宵は答えを告げるな…私に夢を見させてくれ』

ルルーシュが答える言葉などたった一つきりだと男も理解していた。
けれど、ルルーシュはその一つしかない答えすら男に返せずじまいだった。
男の顔をみることはもう一度くらい、最後の最後にあるかもしれない。
だが、この答えを返すことも、ましてあの夜のように暖かい男の腕に抱かれることも二度とないのだ。

「星刻」

男の名前がルルーシュの唇からこぼれる。
自分が生きてきたときの中で、男と過ごした時間など瞬きのほどしかないのに、男と二度と会えぬことがこれほど寂しさをもたらすだなんて。
男と出会う前の過去の自分は、この未来を知っても信じないだろう。

「なあ、私の答えは一つだったぞ」

少し勝ち誇ったかのように笑ったルルーシュは、男が送った指輪の他に、この数か月の間に用意させたもう2つの指輪を手に取った。
大きさの違う同じ指輪は、ルルーシュから男への答えだった。
男への答えは、ルルーシュの共犯者がすべてが終わった後に届けてくれることになっていた。

「これでも誓いをする日を夢見ていたんだ」

指輪だけではあの朴念仁はわかってくれないかもしれないから、とルルーシュは男への指輪の内側に”Yes, I do.”と文字を刻印した。
それは誓いを確かにする言葉。

「病める時も、健やかなる時も…」

ルルーシュの誓いを聞くものは誰もいない。
きっと夢の中の自分ならば、多くの人に囲まれ祝福されてこの成句を口にすることができたのだろう。
ああでも、あれは国の伝統を大切にする男だから、星刻の国の伝統にのっとった式になるのかもしれない。
そんな意味のない考えばかりがルルーシュの脳裏に浮かんでは消える。

「死が二人を分かつ時まで…」
「死が二人を隔てても、永遠に夫を愛することを誓うか?」

ほぼ最後まで成句を口にした直後だった。
音もなく、後ろから声がかかった。
ルルーシュは驚きに振り返ったが、そんなことをしなくとも声の主はわかっていた。

「…誓います」

"Yes, I do."と返すルルーシュに満足そうに笑うのは、緑の髪の共犯者だった。
彼女はいつものようなからかうような笑みではなくて、まるで母のようにルルーシュに微笑んだ。

「あの男の愛はお前が死んだくらいで無くなってしまうものか?」

ぽろり、とルルーシュの頬に涙が伝った。
泣くつもりもないのに、とめどなく涙がルルーシュの頬を静かに伝う。
C.C.の問いかけに、星刻と共に過ごした時間が走馬灯のように脳裏をよぎる。
両手で顔を覆うと、思い出の中の星刻の表情がより鮮やかによみがえる。
愛してた。愛してる。
ただの一度も言葉にして伝えなかった想いはルルーシュの胸を締め上げ、想いの粒を涙として流させる。
言葉にしたら歯止めが利かなくなる想いだと知っていた。
あの暖かい胸に自分から縋りつきたい想いを、一瞬たりとも他に視線が向くことを許したくない想いをいつだって理性で制してきた。

「お前も、あの男も本当に…」

C.C.のかすかなつぶやきはルルーシュの耳に届かなかった。
C.C.は、静かに膝をついてルルーシュをその胸に抱きしめた。

「世界中の誰よりも美しく送り出してやるからな」

ルルーシュを抱く腕に力を込めてC.C.は密やかに告げた。
それはルルーシュにとってたとえようもなく優しい約束だった。

「星刻…愛してる」

もう今生では届かない言葉をルルーシュはそっとつぶやいた。



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