「ねえ君、本当に何も知らないの?」
珍しく白衣ではなく、きちんと正装をした婚約者が私を振り返る。
もちろん私だって、それ相応に着飾っている。
だってここはこの帝国を統べる皇帝陛下がお住まいになっている場所なのだから。
「何を、ですか?」
うろんげな伯爵のまなざし。
彼が何を言わんとしているのかは実のところ正確に理解している。
けれど、私は答えを持っていないのだ。
「何を…ってねえ。…うん。やっぱり僕が婚約者に選んだだけはあるよ、君」
「ほめ言葉として受け取らせていただきますわ、伯爵」
伯爵が尋ねたかったことなどすぐに理解できる。
あのユーフェミア皇女殿下の乱心に起因した黒の騎士団による反乱。
それと時を同じくして姿が見えなくなった、私の大切な幼馴染―いや、大切な御方のこと。
伯爵が、というよりも、帝国側が知りたいのはその方のことだ。
だが私は本当に何も知らない。
私が唯一知っているのは、あの人がどうしようもなく優しい人で、その優しさのせいで嘘を吐くことがよくあるということだけだ。
「で、そんな才あふれる婚約者殿、ひっじょーに残念だけど、その態度は僕には通用しても、これからお会いする方には通じないと思うよ」
少しだけ心配の色を滲ませて彼は言った。
『これからお会いする方』
それはこの国を統べるあの方か、それとも、婚約者の直属の上司であるあの方か。
私は詳細を知らされていない。
ただ表向きは目の前の彼との婚約を祝う、という名目で呼び出されたのだ。
「ご忠告、感謝いたします」
いくら彼の家が建国当初から続く名家だからといって、こんな呼び出しは異例のことだ。
行方の分からない大切な御方のことと結びつけるのは容易。
「…君ねえ」
「ロイド伯爵」
私は彼の言葉をさえぎる。
柄にもなく彼が私のことを心配してくれることはわかっていた。甘い感情とは無縁の婚約だったけれど、私たちはとてもよく似ていた。
誰よりも何よりも大切な主がいるという、その一点で。
「伯爵には後悔してもしきれない過去がありますか?」
数秒沈黙が落ちる。
彼は無言で私を見つめた後、苦い顔つきでため息をついた。
「…あるよ。できるならあの頃に戻って、どうにかして差し上げたい過去が」
無意識、だったのだろうか。
それとも私が言わんとすることを理解しての言葉だったのだろうか。
彼の悔恨は、彼自身の過去へではなくて、誰かの―彼の大切な方の過去へのものだった。
「私も同じですわ。…どうにかして差し上げたい、過去が…」
ありますの。
力なく続けて言った言葉に、伯爵は視線だけで続きを促す。
視線が、優しかった。
「私ごときの力ではどうにもならないことだとはわかっているんです。それでも、できるならば、どうにかして差し上げたかった」
ああ、あの時。
あの一連の出来事が、彼の方の柔らかな心をどれほど傷つけたのだろうか。
いまもさして変わらないが、あの頃はもっと無力な子供だった。
かける言葉も見つからず、ただ肩を落とす後ろ姿をそっと見守ることしかできなかった。
「……だから、今度はそんな後悔をしないために、できうることは全部やってみようと思いますの」
私の微々たる力では結果は変わらないかもしれない。
けれど、何もせずにいるよりは、何かをしていたい。
姿の見えない、あの御方のために。
「たとえそれが、君自身を危険にさらすことになっても?」
この人の言うことは何時だって鋭い。
私は微笑むだけで、その問いには答えなかった。言葉にする必要はなかった。
「…君、面倒な性分してるよ」
「あの方ほどではありませんわ」
あの方の姿を思い描いて、私は微笑む。
何でも一人で抱え込んでしまう性分のあの方。
抱え込んだものの重みに負けず、道を切り開いていくあの方。
その強さこそが私を魅了してやまない、あの方の美点だ。
けれど。
時に過ぎるほどに強いあの方が歯がゆくも、憎らしくもあった。
「…ねえ、ミレイくん」
伯爵の声で私は現に立ち返った。
あの方のことを思うと何時だって私は他のことを忘れてしまう。
伯爵は、彼に不似合いな色を映した瞳で私を見つめている。
「一つだけ、君の願いを聞き届けるよ」
「願い、ですか…?」
唐突な彼の言葉の真意がわからない。
私のいぶかしげな声に彼は答えず、続きを口にする。
「僕のできる範囲、っていう条件付きだけどね。一つだけ、君の願いを叶えると約束するよ」
まるでその言葉は、これから先に待ち受ける「何か」を知っているようで。
刑の執行人が「遺言は」と聞く口調はこんなものなのかもしれない、と私に思わせた。
「どうして、そんなこと約束してくださいますの?」
純粋に疑問が口をついてでた。
彼は少しだけ表情をゆがめる。
しばし彼は黙ったままで、私は立ち止まってしまった彼を追い越して振り返る。
「…もう一人の僕へのせめてもの自己満足、かな」
ぽつりと彼は言った。
唯一人をおもって、その人の為に生きていく。
お互い、その形は違うけれど、確かに私たちは映し鏡のよう。
だから、彼はこんなことを言うのかもしれない。
「…では『もう一人の私』であるあなたに、一つお願いが」
そんなこと、あるはずはないと思う。
いや、思いたい。
けれど。
けれど、もし。
「もしも…もし、わたしがあの方を忘れたように生きていたなら、どうか私の目を覚ましにきてください」
それが一体どんな状況なのか、私にも想像はつかない。
そんなこと、決して起こり得るはずはないと思うのに、何故か胸の不安がぬぐえない。
例え何があっても、私が彼の方を忘れたように生きていたら、私は自分で自分が許せない。
過去の私は決してその未来を許すことはできない。
だから、過去の私から、未来の私に戒めを。
「……それは一体どういう意味…?」
彼は少し眉を寄せて、問うてきた。
「言葉の通りですわ」
彼の表情がまた曇った。
やはり、彼はこの先に待つ「何か」を知っているのだろうか。
「…それが君の願いなら。きっと叶えるよ、僕の主の名にかけて…」
微笑んだ私に、彼は彼の最上の誓言をしてくれた。
ああ、その言葉が何故か私の不安の一端をぬぐってくれる。
「ありがとうございます、伯しゃ…いえ、『もう一人の私』」
風が私の頬をなぜる。
陽光が差し込む外回廊は、穏やかで楽園のように美しい。
けれど、私には冥府への入り口に思えて仕方なかった。
彼女と彼の約束が果たされるのは、これよりちょうど二年が過ぎた頃のことである。
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