それは初恋と言うには強すぎて。
思い出にすら出来ない、今でも俺の心を支え続ける確かな気持ち。
『ジノ。これからは、ユーフェミア様のところへ行って来なさい』
宮中で、今からアリエスの離宮へ向かおうとした時に父から投げかけられた台詞。
その言葉が、始めは理解できなかった。
父に命じられ、次期皇帝確実と噂されるシュナイゼル殿下が目をかけている異母妹のルルーシュ殿下のところへ赴いたのは半年前。
初めて殿下に会った時、僕は何か良くわからない感情で胸が震えた。
後々、それが「一目惚れ」というものだったと理解するが、当時は、その感情に名をつけることすらできなかった。
だから、それは「恐怖」だと思ったのだ。
なぜなら、ルルーシュ殿下は僕を含む貴族の子弟には冷たい視線を送るばかりで笑顔など見せてくれたこともなかったから。
毎日笑顔の耐えない世界で育った僕は、殿下の綺麗だけれど人形のように冷たい瞳が恐いと思っていたのだ。
けれど、そんな恐怖はある日、霧散してしまった。
僕は彼女の笑顔を見ることができたのだ。
それは僕に向けられたものでは決してなかったのだけれど、本当に綺麗な笑顔だった。
特に、妹君のナナリー殿下、ユーフェミア殿下と一緒にいらっしゃる時の笑顔がとても美しくて。
だから、僕たちといる時に笑顔を見せてはくださらないのは、ただ単純に僕達がお嫌いなのだと思った。
そう考えると、とても悲しくて。
でも、その笑顔は僕だけに向けて欲しいから、他の子弟たちには見せたくないなとも思って。
殿下と二人で話したこともない上、学友として共にいる時も他の子弟たちのように殿下に話しかけることもできないのだから、殿下が自分を覚えているはずもない。
だから、そんな望みは夢のまた夢なのだ。
それでも僕は、殿下の側にいられることが幸せだったのだ。
「いつか」を夢見ていることができたから、僕は幸せだったのだ。
父の話は、こうだった。
ルルーシュ様の母君であるマリアンヌ皇妃が暗殺され、宮中での後ろ盾がなくなった殿下は日本に送られるというのだ。
始めは、宮中での後ろ盾ならルルーシュ殿下を可愛がっていたシュナイゼル殿下が買って出るのではないかと父を含めた貴族の大半が考えたらしい。
だが、シュナイゼル殿下は病に臥せっているようで、ルルーシュ殿下の処遇を決定する場にも参内しなかったようだ。
それを殆どの者が「無言の肯定」と受け取り、殿下の処遇に異を唱えるものは誰もいなかったと言う。
表向きには日本との友好関係を確固とするための留学となっているが、人質も同然の措置だ。
いくら自分がものを知らない子供だとしても、その名ばかりの留学がどういう意味を持つのか分かる。
殿下の留学は、近い未来に起こる日本侵略への足がかり。
我が国の人型次世代戦闘機・ナイトメアに欠かすことのできないサクラダイトの一大算出拠点を持つ日本を、野心の強い陛下が放って置くはずがない。
日本への侵攻は、時期が来れば必ずあると、帝国の中心に位置する者たちは誰もがわかっていた。
だが、どうして。
どうして、その犠牲に殿下が、ルルーシュ殿下がならなければならないのだ。
(なんで…)
僕は走った。
父の話を聞いた僕は、一目散にアリエスの離宮を目指した。
今日は、久しぶりに殿下の元にお伺いに向かう日だったのだ。
マリアンヌ様がお亡くなりになったとは聞いていたが、それが暗殺だとは今の今まで知らなかった。
表向きには、事故死ということになっていたから。
だから、今日はずっと、どうやったらルルーシュ殿下を励ますことができるか考えていたのだ。
いつも凛としていらっしゃる殿下だから、悲しんでいるお顔なんてなさらないと思う。
けれど、本当はとても悲しんでいらっしゃるはずだから、何と言葉をかければその悲しみが少しでも軽くなるのか。
今日はずっと、それを考えていたのに。
「殿下!!」
アリエスの離宮で、こんなに大きな声を出したのは初めてのことだった。
いつも日の光が差し込み、庭で咲いた花々が飾られていた離宮の中は、随分赴きが変わっていた。
家具という家具には白い布が被せられ、窓は厚いカーテンに覆われている。
他の離宮や宮中より女官の数は少なかったが、どの場所の女官たちより明るく優しかった彼女達も誰一人としていない。
無礼だとは理解していたが、それでも殿下の姿を探して離宮の中を歩き回った。
そして、ようやく僕は殿下を見つけた。
「殿下!」
殿下は、いつも僕達が通された応接間にいらした。
そこにある家具も白い布が被されていたが、一つだけ、年季の入った古いチェスボードと駒がテーブルの上で存在を主張していた。
だが、そんなものは直ぐに目に入らなくなる。
殿下はいつもお召しになっていたドレスでなく、平民の少年のような服装をしていた。
そして、ジノが部屋に足を踏み入れた瞬間、殿下は手に持っていた短剣で長い黒髪を根元からばっさりと切ってしまったのだ。
「殿下…」
殿下を見つけたものの、どうしていいかわからず、僕はただ呆然とした。
はらはらと、殿下の首筋から細い髪が舞って床に落ちる。
『髪は女の子にとって、一番の装身具になるのよ』
母はいつもそう言って、髪の手入れは欠かさなかった。
帝国でも古くからの慣習で、女性は髪が長いほうが良いとされていた。
特に皇族や貴族には、その風習が根強く残っており系譜に連なる子女たちは皆一様に長い髪をしていたのだ。
それを、殿下は自らの手で切り落とした。
けれど、僕は慣習がどうとかよりも、あの綺麗な黒髪を自分の手で切り落とした殿下の後ろ姿が、ひどく寂しげで、胸が苦しくなった。
「殿下」
「…お前」
今までの声に比べればひどく小さな声だった。
だが、殿下はようやくその声で僕の存在に気づいたようで、瞳を驚きに見開いた。
それは、無人だと思っていた離宮に人がいたことへの驚きだったのだろうか。
しかし、そんな表情はすぐに消えて、殿下は皮肉げな笑みを浮かべた。
「なんだ?落ちぶれた庶出の皇女を嗤いにきたのか?」
「え…」
殿下は、出会ったときと変わらず背筋を伸ばして凛と立っている。
けれど、その声は覇気がなく、表情もひどく疲れたものだった。
そして、唐突に理解する。
それが、いま殿下が出来る精一杯の矜持の持ち方なのだと。
理解してしまえば、僕はそんな殿下の姿がとても悲しくなった。
僕はいつでも誇り高く、凛とした殿下の姿が好きだった。垣間見たことしかない綺麗な笑顔も好きだけれど、同じくらい皇族の見本みたいに凛々しい殿下の姿も素敵だと思っていたのだ。
けれど、それは裏を返せば、いつでも隙を見せないように気を張り詰めて過ごしていることに他ならない。
わずか九つの殿下は母君を目の前でなくされて、妹君も瀕死の重傷を負われた。だが、父である皇帝陛下からは人質として日本へ迎えと命じられた。
その心は、どれほど深い悲しみに満ちているのだろう。
僕なんかを引き合いに出すのは恐れ多いことだが、きっと僕であったなら、泣いて泣いて。
その後はどうなるかなんて想像すらできない。
それなのに殿下は、こんな時ですら他人に隙を見せまいとしているのだ。
どれほど心細いのだろう。どれほど心がつぶれそうな思いをしていることだろう。
殿下の悲しみを理解しても、僕には何もできない。
そんな自分が、とても惨めに思えた。
「お、おい!」
悲しみを前面に押し出すことが出来ない状況の殿下を思って、自分のふがいなさを心で呪っていると、突然、殿下が慌てた声をあげて僕の元に駆け寄ってきた。
「何を泣くんだ。何故、お前が泣く!」
殿下の声で、僕は初めて気づく。
頬に手をやれば、そこには濡れた感触がある。
僕は我知らず、泣いていたらしい。
はらはらと流れる涙は止まらない。
「で、殿下…」
「ほら、泣き止め!ヴァインベルグの名が泣くぞ!」
「でも、殿下…殿下が…」
「殿下が…」その後に続く言葉は、飲み込んだ。
殿下が、驚いたように目を見張り、少し悲しげな顔をしたから。
でも、その後。
殿下は、悲しそうな顔を残したままだったが、僕に向けて笑ってくれた。
「あぁ、もう。お前は本当に気が弱いのか、感性が豊かなのか、どちらなんだ…ジノ」
側まで駆け寄ってきてくれた殿下は、手に持っていた白いリボンで、一瞬躊躇った後、僕の頬に伝わった涙を優しく拭いてくれた。
殿下とこんなにも近づいたのは初めてで、僕の心臓は早鐘を打っていた。そして、殿下が名前を呼んでくれたことに酷く驚き脈はますます速くなった。
「僕の名前…」
ポツリと呟いた言葉に、殿下は怪訝な顔をした。
僕は不思議だった。
いつも他の学友達の中に埋没してしまって、殿下に話しかけることすらできなかった僕の名前を殿下がご存知だったことが。
「私が名を知らないと思っていたのか?最初に会った時に、自己紹介をしただろう」
殿下はあきれたように言われたが、その口調は柔らかなものだ。
覇気がなく、疲れきっている様子の殿下だったが、僕に話しかけてくださる姿はいつもよりずっと穏かなものだった。
「それよりも、どうしてここへ来た。早く家へ帰れ。ここはもう直ぐ閉鎖されるぞ」
「殿下が…殿下が日本へ向かうと…」
嗚咽まじりで、ひどくみっともない声だった。
最後まではいえなかったけれど、殿下は僕の言葉を正しく受け取ってくれたようだ。
ただ殿下は、静かに瞼を伏せて先ほど僕の頬を拭ってくれたリボンをギュッと胸の前で握った。
「ああ…。ナナリーが退院しだい日本へ向かう」
「ナナリー殿下も…ですが殿下は」
「…半月ほどなら向こうも待つらしいからな」
ナナリー殿下のことは父から先ほど聞かされた。
マリアンヌ皇妃に庇われ一命は取り留めたものの、一生歩くことはできない怪我を負ったらしい。
いまだナナリー様は集中治療室での治療を余儀なくされている。
普通であればいくら治療時間があっても足りない怪我だ。
だが、いつまでも殿下方に時間があるわけではない。だからナナリー殿下は、半月たらずで退院させれてしまうのだ。
そして、ルルーシュ殿下と共に日本に送られる。
「どうして…」
どうして、殿下方ばかりこんな辛い目に合わなければならないのだろう。
どんなに殿下方の不幸を僕が嘆こうと、僕はそれをどうこうする力はをこれっぽっちも持っていない。
僕はなんて無力なんだ。
「ジノ、顔を上げろ」
黙ってしまった僕に殿下はそう言って、顔を上げさせた。
そして、諦めたような笑みだったけれど、綺麗に笑ってくれた。
「お前が何かを気に病む必要はない。だから早く帰れ。人目につかないように帰れよ」
「でも…そうしたら殿下とは!」
どうして殿下は、こんな時でも人を心配してくれるのだ。
ご自分が一番つらいときなのに、僕を安心させてくれるために笑ってもくれて。
でも、ここで今すぐに帰ってしまうことは嫌だった。
最後の別れとなることが明白だったから。
「ジノ。私はこれ以上、周囲に煩わされたくない。だから、私のためを思うなら早く帰れ」
「も、申し訳ありません…」
謝罪の言葉を述べたが、それが僕のためを思った言葉であることはよくわかっていた。
ああ、本当に殿下は優しすぎる。
そう思ったら、また涙が溢れてきてしまった。
「お前は…本当に泣いてばかりだな」
「も、申し訳」
殿下は、そう言ってまた僕の涙を拭ってくれた。
そして、ご自分が持ってらしたリボンを見つめて少しだけ顔を歪める。
「殿下?」
「ほら、これで頬を拭って行け。今なら人もあまりいないだろうから」
殿下は僕の呼びかけに答えてはくれず、僕の手にリボンを握らせて宮廷への近道がある庭へと続く扉へ追いやろうとする。
けれど僕はまだ殿下の側にいたかった。
殆ど忘れてしまったけれど殿下を励ましたくて考えた言葉を聞いて欲しかった。
「ですがまだ僕は!」
その時、殿下を呼ぶ声が外から聞こえた。
幸いそれは離宮の裏口からのようで、その声の主がここへ辿りつくのは直ぐではないだろう。
だが、時間はもう残っていない。
「ほら!人が来る、早く行け!」
「殿下!また、またお会いしていただけませんか!」
殿下に背中を押されて庭に出る直前、せめて約束が欲しくて願いを口にした。
だが殿下は僕の言葉が聞こえていないかのようで、僕を庭に出して扉を閉めようとした。
けれど、その扉を閉める直前。
疲れようでも、諦めたようでもない。
あの日、妹君たちに見せていた美しいあの微笑を僕に向けて言ってくれた。
「お前が望むなら。いつか」
そう言ってくれた。
…あれから、随分時が経った。
俺は軍人になって、ナイトオブラウンズの一人にまで上り詰めた。
「気が弱いのか」と殿下に言われた俺も軍の荒っぽさに染まり、今では9年前と別人のようだ。
もし、殿下が今の俺を見たらどう思うだろうか?「気が強くなった」とでも言われるだろうか?
殿下は、日本で亡くなったと聞いている。
でも何故か、9年も経つというのにいまだに実感がわかない。
それはきっと、あの日殿下が約束をくれたから。
あの日の約束は、今でも俺の心で殿下の笑顔と共に息づいている。
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