「…もう、無理なのか?」
男は闇夜にささやいた。
それを聞き咎める者は誰もいないように見えた。
「言ったはずだ黎星刻。無理だ。私は持てるすべてのカードを使いきった」
だが男の問いに答える声があった。
ゆらめく影の正体を男は知っている。
影の答えは男がこの一年、何よりも恐れたものだった。
「せめて…せめてあと三月」
男も不可能だとは分かっている。
けれど願いを口に出さずにはいられなかった。
姿の見えない声の主も口に出さずともできうることならばそうしたやりたいと思っていた。
たとえ記憶がなくとも、あれは自分の大切な共犯者。
だが、その共犯者であるがゆえに男の望みを叶えることはできないのだ。
「……明日のことは手筈通りだ」
影は最後通告を突きつけ、男の返事を聞かずにゆらりと気配を消した。
後にはただ男が残された。
「よくぞご無事で」
「はい。芦花の言った通り星刻が助けに来てくれましたから」
中華連邦の天子と神聖ブリタニア帝国の第一皇子オデュッセウスの婚儀に端を発した此度の争いも、ここにようやく終結を迎えた。
希代の策士、ゼロ率いる黒の騎士団が介入したことで事態は思わぬ展開を見せたが、黒の騎士団もそして決起を起こした星刻たちも己の望みの結果を手に入れた。
そして、黒の騎士団所有の斑鳩では、ゼロにより人質として連れ去られていた天子と黎星刻の妻、芦花が星刻たちと再会を果たしていた。
「…体はいいのか?」
「だから病というわけではないのだから、と何度言えばわかるのか…」
「だが」
「ふふふ…何もない…」
しきりに心配をする夫の態度に笑った芦花だが、すぐに彼の異変に気づく。
いつもなら苦虫をかみつぶしたような顔をして、まるで子供のように拗ねた様子を見せるのに、今日の彼はまるで眩しいものを見るように自分を見つめるのだ。
その瞳が芦花の心をかき乱す。
嫌な、予感がした。
「ゼロ、これでうまくおさまったな」
憂うことなど何もないはずだが、奇妙な緊張が続く中華連邦一同の様子を見ながら、扇が自分たちの司令官であるゼロを見やった。
それは確認だ。
計算高いゼロが、結果的に大宦官たちの粛清を手助けした形になった今回のことを中華連邦側に高く売りつけるのではないかという危惧があったからだ。
扇はゼロを反乱の指揮者として信頼している。
だが、その底の知れなさ、容赦のなさに畏怖を感じていることも確かだ。
だから、確認をしたかった。
「……そうだな。これで全てが整った。…残るは最後の仕上げ、というところか」
返ってきた言葉は一応は是とするものだったが、意味深な言葉を発した直後、ゼロは己の仮面に手をかけた。
誰もが目を見開いたが、マスクをとったその顔に黒の騎士団の面々は絶句した。
「き、君は…!!」
「お前はC.C.…!」
はらりと流れる長い緑の髪。
印象的な金の瞳の女がゼロの衣装を身にまとってそこにいた。
通称、魔女。
黒の騎士団内ではゼロの愛人と噂される人物だ。
「は、本当に気づいていなかったとは…間が抜けているにも程がある」
C.C.は鼻で騎士団の幹部たちを嗤った。
だが心の中では、彼らが気づかずにいても仕方がなかったという気持ちもある。
なぜなら復活した『ゼロ』は彼らが覚えている通りの『ゼロ』だったのだから。
大胆な計画、余人には考えもつかないパフォーマンス。
『ゼロ』は確かに『ゼロ』だった。
魔女は、それを可能にした男に視線をやった。
『本来のゼロ』に引けを取らない頭脳を持つ男、黎星刻。
いま彼は傍目にもわかるほど強く、傍らの妻を自分に抱き寄せていた。
黒の騎士団の幹部たちはC.C.に事情を問いただそうと言葉を重ねたが、彼女はひたりと視線を星刻とその妻に向けるだけで答えを返そうとはしない。
そうして、一同の視線が魔女が見つめる先に注がれる。
「時は来た。私の共犯者を返してもらおう」
C.C.は言った。
いっそ厳かなほどの物言いで。
抱き寄せられた黎夫人、芦花は困惑したように夫と緑の髪の魔女へと交互に視線をやるばかり。誰の目にも彼女が事態を理解していないことは明らかだ。
そうなれば、C.C.が言葉をかけているのはただ一人、星刻ということになる。
「…星、刻…?」
芦花はただ夫の名を呼んだ。
先ほどから続く胸のざわめきがおさまらない。
星刻はゆっくりと、芦花に視線を向ける。
その瞳に浮かぶ感情。
決して悟りたくはないのに、嫌でもわかる。
声が、出ない。
「芦花」
後に続く言葉を聞きたくない。
心では確かに思うのに、唇はわななくだけで声は出ず、体は何かに縛されたように動かない。
どうして星刻は自分をそんな目で見つめる。
どうして、そんな物悲しげな色を乗せて自分を見るのだ。
『愛惜』としか言い表せないそんな目で。
「芦花…たとえこの先、何があっても…どんなことが起ころうと、私の妻はお前だけだ」
まるで泡沫に触れるように星刻は芦花の頬を手の甲でなでた。
何度も芦花を安心させてくれた大きくて無骨な星刻の手。
それが今はとてつもなく芦花を不安にさせた。
「どう、して…そんなこと」
永久の別れのような言葉。
ようやく芦花の口をついて出た声はひどく掠れたものだった。
けれど、まるで水を打ったかのように静まりかえるその場では十分に聞き取れる。
ただただ、驚きに目を見開く芦花に星刻は微笑みを向けた。
泣きたいのを無理やりに堪えたようなその微笑み。
一度だって見たことがなかったそんな夫の表情。
星刻は芦花の問いに答えず黙って、その腕に彼女を抱きこんだ。
「…心から、君を愛してる」
強い力。
芦花の体を考えてか真正面から抱擁を加えることなど、最近めっきりなかったのに、いま星刻は今までで一番強い力で正面から芦花を抱きしめていた。
けれどそれも一瞬のことで、星刻はすぐに腕を離すと、芦花の体の向きを変えて背を押す。
されるがままだった芦花は、背を押されて一歩踏み出した。
視線の先には、先ほどからずっとこちらを見つめたままの緑の髪の女―C.C.。
咄嗟に振り返った芦花だが、星刻はただ微笑むだけ。
彼は何も答えてはくれない。
「どうして…」
それでも口にせずにはいられない疑問が口をついてでる。
たった二日前。
あの夜に、離しはしないと約束したのに。
「しん」
「もうその辺にしておいてやれ」
もう一度名前を呼ぼうとした芦花を遮ったのは、誰あろうC.C.だった。
芦花の視線が星刻から外れ、まっすぐに金色の瞳とかちあう。
ぞくり、と芦花の背を何かが駆けた。
「その男をそれ以上追いつめてやるな。困るのはどうせお前だ」
まるで知己の友であるかのように、C.C.は芦花へ語りかける。
芦花が見知っている人物ではない。
けれど、その瞳と言葉は言い知れぬ懐かしさを覚えるものばかりだ。
「それに、お前を返してもらわねば私も困る」
まるで子供に言い聞かせるようにC.C.は語る。
苦笑を浮かべて、仕方がないやつ、とこぼしたC.C.は、すっとその手を芦花に差し出した。
「契約しただろう?私の願いを叶えると。力でお前自身の願いを叶えると」
『力が欲しいか?』
そうだ、芦花は確かに彼女の声を聞いた。
それは何時どこで、だ。
右目が熱い。
「さあ。『革命』のやり直しだ」
芦花はその言葉に、足を踏み出す。
金の瞳に魅入られたように、彼女はもう後ろを振り返らない。
「おかえり、ルルーシュ」
芦花がC.C.の手をとった瞬間、C.C.は、それこそ誰も見たことがないほどふわりと笑い、親が子にするように自然に、自分のもとに戻ってきた共犯者に祝福の口づけを送った。
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