儚く消えたその未来を、惜しまないと言ったら嘘になる。
ただ穏やかで何気ない幸せがある日常。
平凡でどこにでもあるような幸せが、私たちにはたとえようもなく眩しかった。
それは一瞬のこと。
けれど、息をつめて二人を見つめていた周囲にとっては永遠とも思える時間だった。
ゆっくりと、静かな口づけを送った魔女が黒髪の麗人から体を離す。
二人の間に言葉はない。
しん、と風さえ止んだ時のなか、沈黙を破ったのは誰あろうその黒髪の麗人自身だった。
「…くっく…ッくはははははははは!!!」
まるで気がふれたかのように彼女は笑う。
彼女を知る人々―中華連邦の面々は、こぼれんばかりに目を見開いてその様子を見つめている。
一体、彼女に何があったのか、と。
彼らが知る、黎星刻の妻、芦花は決してこんな笑いはしなかった、と。
自然、彼らの視線は夫である星刻へと注がれる。
けれど、星刻は表情を変えずにただ彼女を見つめるだけだった。
それが余計に天子らを混乱させた。
「…目覚めの気分は上々のようだな」
いつまでも笑いつづける麗人に、魔女はゆったりと声をかけた。
魔女がこの時をどれほど待っていたか、誰も知る者はいなかった。
魔女の呼びかけにようやく、彼女は笑いをおさめた。
「はっ。口づけで目覚めを促すとは…魔女はいつから王子に鞍替えしたんだ?」
花のかんばせに浮かぶのは、口の端を持ち上げた、いかにも皮肉げな微笑み。
慈愛の女神のように天子をなだめていた様子を知る黒の騎士団の者たちも目を見張らずにはいられない、その変貌。
けれど、魔女にとっては、こちらの表情の方がよほど馴染みがあった。
「目覚めて早々、減らず口も叩けるとはな。恩知らずな奴だ」
「恩知らず?私はお前の契約者なのだから当然のことだろう、C.C.」
「…本当に口の減らない奴だな」
C.C.と呼ばれた魔女は言葉こそ荒いものだったが、口元に満足そうな笑みを浮かべる。
その様子をあっけにとられたように見つめていた周囲から、ある男が歩み出た。
ブリタニア人でありながら黒の騎士団にくみする、ディートハルトだった。
「お待ち申しあげておりました」
ディートハルトはまるで騎士のように跪いて、芦花を仰ぎ見た。
黒の騎士団でもひときわ異色を放つ男がそんな態度をとる人物は、この世でもただ一人だと騎士団員たちは知っている。
だからこそ、その場にいた騎士団員たちはディートハルトの姿を見て「まさか」と声を失った。
「…ディートハルト。気づいていたか」
芦花はディートハルトに一瞥をくれると、彼が崇拝する人物が浮かべるだろう笑みを浮かべた。
「は。この日をどれほど待ち望んだことか…」
「…C.C.とこの茶番を画策したのはお前か」
「お気に召しませんでしたでしょうか…ゼロ?」
黒の騎士団員たちがが半ば確信していた名前がディートハルトの口から零れた。
しかし、彼らと違い、中華連邦の面々はその名を耳にして眼を見開いた。
ただ一人、芦花の夫である黎星刻だけは、自らの妻だというのに、何の反応も示さず、静かに彼女の背を見つめ続けていた。
「ゼロ、だと!?」
「だったら今までのゼロは」
騎士団員たちや中華連邦側の香凛や洪古が驚きの声をあげてざわつく。
「芦花…?」
しかし、その中でよく響き、渦中の人物の耳に届いたのはただ一人の声だった。
「…それは私の名ではなく、架空の女の名前ですよ。天子様」
芦花―いや、ゼロと呼ばれる彼女は、先ほどまで自分が傍近くで守っていた幼い天子に向けて笑う。
声は優しく、それこそ今までの彼女となんら変わりはなかったが、かける言葉は確かに今までの彼女を否定するものだった。
「芦花、だって、芦花は星刻の…赤さんだって!」
静かな拒絶に天子は悲鳴のような声をあげた。
たった1年の間だったが、芦花は天子の傍近くにいつでも侍っていたのだ。
例え彼女が偽りの姿だったとしてもその本質は変わっていないと天子は感じた。
だからこそ、芦花である自分自身を「架空の女」と言い切った彼女の言葉は天子に恐怖を抱かせる。
彼女は二度と、自分たちの傍に戻ってはこないのではないかと。
「言ったでしょう、天子様。『芦花』なんて女はこの世にはいないんです。最初から、どこにも、ね…」
芦花―いや、ゼロは天子の言葉に笑って返した。
その笑顔は完璧なもので、彼女は芦花であることを放棄したがっていたのではないかと思わせるものだった。
そして彼女は完全に中華連邦の人々に背を向け、歩きだす。
「ディートハルト、今までの作戦の経過と結果を」
「すぐにお持ちいたします」
「扇、今現在の各人員の配置図を」
「…あ、ああ!」
次々と指示を出していく彼女に、誰も口をはさまなかった。
「藤堂はラクシャ―タとともにKMFの調整状況や編成の報告を」
「…ああ。だがそのあとに、事の次第を聞かせてもらうぞ」
「私も聞かせてほしいわー」
藤堂はいくらか条件をつけたが、今の一連の態度、そして何よりあのゼロに心酔しているディートハルトの行動によって彼女がゼロであることに疑いの余地は抱いていないようだった。
ラクシャ―タはゼロが誰だろうとあまり関係ないようだったが、好奇心から藤堂の言葉に同意を示しているようだった。
「聞いてもあまり意味が無い話だとは思うがな」
彼女は眉尻をあげて、そう言ったが、藤堂は意に介さず「それは俺たちが決める」と言った。
すると、彼女から少しだけ明るい笑顔がこぼれた。
「お前らしい物言いだ」
彼女は言いながら、上部の髪をまとめていた簪を引き抜いた。
するり、と彼女の背を美しい黒髪が滑る。
「芦花!!」
まるでそれが合図であったかのように、彼女の夫―そう、大切な伴侶であったはずの星刻から声が上がった。
彼女は歩みをとめた。
だが、振り返ることはしない。
「…それが私の名ではないこと、誰よりお前が一番よく知っているはずだ」
拒絶する声が星刻をその場につなぎとめる。
いつかこんな日が来ると、いや、今日が別れの日になると彼は知っていた。
けれど、彼女が真実の自分を取り戻しても、自分のところにとどまってくれるのではないかとわずかな甘い期待を抱いていたのだ。
それは望むだけ無駄なことだとはわかっていた。だが、たとえ万分の一の確率でも、星刻はその可能性を信じていたかった。
「…ルルーシュ…」
星刻は、ずっと胸にしまいつづけていた彼女の本当の名を呼んだ。
あの日。
浜辺に打ち上げられた彼女を介抱して、眼を覚ました時、この名を呼び掛けた。
だが返ってきたのは彼女が自分自身が誰だかわかっていない言葉だった。
たった一年前のことなのに、こんなにも懐かしく思えた。
「ルルーシュ…もう、終わりか?」
もう一度名前を呼んで、彼女へと問いかける。
何が、とは聞かなかった。
聞かなくても、二人の間でそれは明白だったからだ。
「…黎夫人、芦花は三ヶ月後に黎家の跡継ぎを出産。その後、産後の肥立ちが悪く死去」
最後通告だと、誰もがわかった。
天子の予感はあたってしまったのだ。
彼女は自分の「芦花」としての終わりをきっぱりと告げた。
「それが、答えなんだな」
「…そうだ」
星刻は先ほどまで確かにこの世で一番愛しい女を抱きしめていた手を見つめた。
たとえ記憶を失っていても、その潔癖とも言えるまっすぐさは変わらなかった。
その美点が今、星刻に別れを告げる。
ぎゅっと、握りこぶしを作る。
「わかった」
「星刻!?」
静かに是とした星刻に、天子は彼の服の裾を握って、瞳だけで「どうして?」と問いただした。
すると、彼は少しだけ天子に視線をくれて、力のない微笑みを与えた。
天子でも、星刻のその笑みが意味するものはすぐに理解できた。
それは諦観だ。
「星刻…」
天子はゆっくりと、手を話して後ずさる。
星刻の目は、また彼の妻の背へと向けられた。
「…ルルーシュ…君を愛しているよ」
しんとしたその場には、星刻のその声がよく響いた。
頑なに後ろを振り返らない彼女だったが、星刻のその言葉にはその華奢な肩を少しゆらめかせた。
「…C.C.、後はまかせたぞ」
「ああ、わかった」
だが彼女は、あとを魔女にまかせると、やはり振り返ることなく斑鳩のデッキから内部へと入っていった。
「馬鹿な男だ…」
ルルーシュは、デッキの入り口から少し歩いたところの壁に背を預けて笑った。
最後まで自分を愛していると言い続けた男が憎たらしくて、そして…。
「本当に、馬鹿だ…」
頬に暖かいものが伝わった。
もしという仮定の話を考えるのは好きじゃない。
そんな仮定の話を考えたらきりがなかったからだ。決して手に入らいなくて、焦がれるしかできないものだから。
だが、今は、今だけはその仮定の未来を思い描いて、恋い焦がれることを自分に許した。
「私も…愛してる。誰よりも…星刻」
彼に届かせるつもりもない言葉は、ルルーシュの耳にだけに届いて、その場からかき消えた。
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