青く澄み切った空が綺麗だ。
そういえば、あの日もこんな風に雲ひとつないよく晴れた日だった。

「―はこの件に関してこちらの賠償を求めているようですが…星刻様…?」

いぶかしげな声で星刻の名を呼ぶ香凛。
意見が必要なものにはよどみなく裁量を決めていた星刻からの返答が途切れたからだ。
香凛が手元の液晶から星刻へと視線を移すと、彼は大きな窓からのぞく快晴の空を眺めていた。 日も高い時間、この国の宰相を務めている黎星刻の姿は、彼の執務室ではなく、天子から与えられている朱禁城内の私室にあった。
何も今日ばかりのことではなく、ここ数か月、星刻が執務室で仕事を行ったのは数えるほどしかない。 かつて神虎を操り、世界の中でも指折りのKMF乗りとしても名をはせた彼はずいぶんとやつれた。
白い夜着のまま起き上っている体は、一年前より確実に薄くなっている。
もとより治療法がないと言われた病だった。
星刻自身も、彼の傍に仕えてきた香凛も、こんな日がいずれ来ることは分かっていた。
けれど、ずっとその背を追ってきた香凛は遣りきれない切なさを抱えずにはいられない。
なぜ、この人が。
この人こそ、これからの世界に必要な人なのに、と。

「いつまで続くのだろうな…」

ふいに、香凛の呼びかけには答えず星刻がぽつりとつぶやく。

「なあ、香凛…ルルーシュがお膳立てした『平和』はいつまで続くのだろうな」

香凛は咄嗟に言葉がでなかった。
しかし言葉など、見つかりはしないのだ。
その名を呟く星刻に、香凛がかける言葉などきっと一生かかっても見つけられないだろう。

「…何を言ってるんだろうな…すまない、忘れてくれ…」
「星刻様…」

口をつぐんでしまった香凛に、星刻は窓から視線を外して向き直ると、苦笑した。
結局、香凛は何も言えずにただ「…はい」と答えることしかできなかった。
皇歴2019年。
神聖ブリタニア帝国による支配が終わり、世界は全てその地に住む人々の元へと返された。
いがみ合いがなくなったわけではない。
だが、あの悲惨な戦いは未だ生々しく人々の記憶に残っており、解決は全て対話によって行われていた。
いまだ世界は、あの人が望んだ姿だった。



『星が綺麗だな』

いつかの夜、満点の空を見上げて感嘆のため息をついた人がいた。
触れればこちらが傷つく。そんな冷たい雰囲気を持つ女だった。
もっとも、彼女の素顔も性別もいつも仮面の下にしまいこまれていたから、彼女が彼女であったことを知るのは自分も含めて限られていた。
ただ、人を圧倒する雰囲気は仮面をつけていてもいなくても変わることはなかった。

『君の方が綺麗だ、と言った方がいいか?』

後ろから細い体を抱きしめれば、たやすく腕の中におさまる彼女。
からかい交じりに告げると、くすくす笑って甘えるように胸に懐いてくる。
さらさらと皮膚をくすぐる黒髪を手にとって梳く。 自分のものとは違う、彼女の手触りのいい髪が好きだった。

『なあ』
『ん?』

彼女の左手をとってからませる。彼女は好きにさせたままだ。
ごつごつとした自分の手とは違う、しなやかな白い指。
その指を飾る石を選ぶのに一週間もかかったと告げれば彼女はどんな反応をするだろうか。
彼女の指を持つ手とは反対の手で、すぐ傍に忍ばせておいたものをとった。

『返事は全てが終わったら聞かせてくれ』

有無を言わせず、その薬指へと指輪を通した。
シンプルなものを選んだ。
自画自賛するわけではないが、彼女の指におさまったそれは一段と輝きをましたかのようで、細い指によく似合っていた。

『星刻、私は…』

何かを告げようとする唇を、自分のそれでふさいで黙らせた。
彼女から是の答えを貰えるとは自分でも思っていない。けれど今は、夢を見ていたかった。

『今宵は答えを告げるな…私に夢を見させてくれ』

くしゃっと顔をゆがめた彼女。
馬鹿な男、と詰る口元が確かに震えていた。
たとえこの先、この唇から告げられるのが別れだとしても、その瞬間、確かに私は幸せだった。



「ゆ、め…」

ぱしっ、と目が開き、自分がどこにいるのか把握した星刻は渇いた喉で声にならない声を発した。
上体を起き上らせると、体のいたるところが痛んだ。
今はずいぶん下がったようだが、これもここ数日続いた高熱のせいだ。
なんとか持ちこたえているが、免疫力は格段に低下している。
自分の体だ。体力がもういくらも持たないところにきていると、わかっていた。

「答えは、もらえなかったな…」

是、と言ってくれるとは思ってなかった。
いつか返ってくるのは断りだと容易く想像できた。
けれど、その分かりきった答えすら星刻は受け取ることができなかったのだ。
まだ一緒にいられると思っていた。この先、また戦うことはないと思っていた。
結局、そんな星刻の甘い考えなど見事に打ち砕かれて、傍にと願った彼女は指の隙間から零れるようにいなくなってしまった。
二度と、星刻の手の届かない場所に。

「…開いているぞ」

星刻が夢の余韻に浸るように、彼女の指を捕まえていた己の手を見ていると、扉をたたく音が聞こえた。
時刻は真夜中。
以前ならば時刻を問わず星刻の部下がその采配を仰ぎに来たが、最近は彼の体調を慮って昼間でさえ尋ねてくる者は稀だった。
そんな中の訪れだ。
よほどのことだろう、と星刻はあたりをつけた。

「星刻様」

案の定、顔を出したのはいささか顔を強張らせた香凛だった。
かねてより賠償問題で決着がつかなかったあの国とのことか。はたまた、内政でなにか由々しき事態が起こったのか。
星刻の頭に最悪の展開が予想された。

「香凛、なにがあった」
「星刻様にお会いしたいと…あの」

香凛が言葉を濁し、星刻の表情は険しいものになった。
彼女がいいよどむのだから歓迎せざる客なのだろうと星刻が思った直後だった。

「あ!」

声をあげたのは香凛だ。
彼女を押しのけて、その客が私室に入ってきたのだ。
漆黒の衣装に、顔全体を覆った仮面。
香凛がなぜすぐに客の名を告げなかったのか、すぐに理解できた。
そこには、この世界を導く存在、『ゼロ』の姿があった。

「…香凛、下がって構わない」
「ですが…」
「大丈夫だ」

安心させるように星刻が微笑めば、香凛は心配そうな表情を見せたが黙って一礼をし扉を閉めた。
そして香凛の姿が見えなくなると、すっと目を細めて目の前の存在を見た。
『ゼロ』が以前の『ゼロ』でないことを星刻はよく知っている。
彼女は、もういない。
では、その仮面の下にはいったい誰がいるのか。
星刻には、ただ一人しか思い当たる人物がいなかった。
彼女が憎み、そして最も信頼した男。

「何の用だ」

なぜ彼が自分を訪ねてきたか、その理由はわからなかった。
ゼロ単身でここに来ているのならば、国と国を代表してという話ではなさそうだ。
星刻は端的に問うたが、ゼロはそれに答えない。
その代わり、どこからか小さな小箱を取り出して星刻へと放り投げた。
咄嗟に星刻はそれを両手で受け取ってしまった。
紺色の天鵞絨張りの小箱。
いったいどういうことだ、と星刻が戸惑っていると、役目は果たしたとばかりにゼロはすぐに背を向けた。

「待て、ゼロ!」

その小箱が何なのかわからない星刻ではない。
普通ならばその中に宝飾品がおさまっているはずだ。
だが星刻にはゼロからこんなものを渡されるいわれはない。
ゼロは星刻に背を向けたまま、確かに彼が知る人物の声で告げた。

「『返事が遅くなって、すまなかった』彼女からの伝言だ」

誰からの、なんて聞き返す必要などない。
星刻にはそれだけで十分だった。
ゼロはそれだけ言うと、静かに部屋を出て行った。
けれど星刻の耳には、扉の開閉の音も届かなかった。
星刻は震える指で、恐る恐る小箱を開いた。
そこにあったのは、銀色の指輪と揃いの指輪がもう一つあったと告げるいささか小ぶりな窪み。

「…ル、ルーシュ」

もう片方の行方は想像がつく。
彼女が、持っていったのだろう。
星刻は銀の指輪を手に取ると、自分の左手の薬指にそれをはめてみた。
それは誂えたかのように彼の指にするりとおさまった。

「いつ計ったんだ…ルルーシュ」

抜け目ない彼女の性格に思わず笑いがこぼれたが、すぐに銀の指輪はぼやけ始める。
ぱたり、と音がして敷布の上に水滴が落ちた。
気持ちは止めることができなかった。

「…指輪があっても、肝心の相手がいなくてどうする」

完璧な計画を立てるくせに、どこか突拍子もつかないところでつまずくことのあった彼女だから「ああ、すっかり忘れていた」なんて言うかもしれない。
いや、「わ、分かっている!今から計画に組み込むつもりだった」と言って怒るかもしれない。
けれど星刻に答えてくれる彼女はいないのだ。

「君も相当の馬鹿だ」

いつか彼女に言われた言葉を、どこにもいない彼女に向けてつぶやいた。
その夜、星刻の涙は止まることがなかった。
それが、彼が彼女の為に泣いた最初で最後の夜だった。



それから間もなく。
合衆国中華の宰相を務めていた黎星刻はかねてより患っていた胸の病で亡くなった。
志半ばでさぞや無念だっただろうと思っていたかつての黒の騎士団員やブリタニア帝国の人々は、彼の死に顔を見て大変驚いたようだ。
彼は安らかに、頬笑みさえ浮かべていたという。
そして、その左手の薬指には彼によく似合っている銀の指輪が輝いていた。

その指輪の対の持ち主を知る者は、誰ひとりとしていなかった。

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