「ただいまもどりました」

涼やかな青年の声が、ミカン畑の真ん中にある家に響いた。
顔の造作はどこか幼さを残しながらも、すっきりとした輪郭などは大人のそれである。

「あれ?かあさーん?」

伝統的な日本家屋である自宅の玄関で、靴を脱ぎながら彼は母を呼んだ。
少し緑がかった黒髪がさらりと揺れる。
漆黒の学生服の襟元をくつろげて、首をひねった。

「おかしいな…今日はでかけないって言ったのに…」

しん、と静まった家の中では昼の時間を思う存分謳歌する鳥たちのさえずりが聞こえてくる。
朝方、国の祝祭日でありながら所用のため学校へと出かけていく時には、彼の母は何も言っていなかった。
母の身を心配する必要などないのだが、彼は今日という日にある決意を秘めて、母に尋ねたいことがあったのだ。

「父さんとアーニャさんのところかっ…!!」

別宅だろうか、と彼が思いを巡らせた時だった。
カンカンカンッ!!と、いっそこぎみよい音をたてて彼が立っていたちょうど後ろの柱にクナイが突き刺さった。
すんでのところで彼はそれを避けたが、攻撃の手は休まず、またもクナイは、彼めがけて放たれた。

「っ!! 母さん!!!」

第二陣のクナイを、どこから取り出したのか、彼もまたクナイでたたき落とすと、大声をあげる。
彼にとって、帰宅早々クナイでこんな危険極まりない真似をする人物など、ただ一人しか思い至らない。
これがナイフだった場合は心当たりが二人いるので、彼はいつも二人の名を呼ばなければならい。

「ずいぶん反応が早くなりましたね、レイ」

廊下の奥の暗がりから出てきたのは、果たして、母その人だった。
穏やかに微笑む母は、名を篠崎咲世子。
一般論として息子に危険物を投げつけるなど言語道断であるが、忍術の流れをくむSP術、篠崎流の37代目である彼女と、その息子である彼の間では、こんなことは日常茶飯事であった。
構えていたクナイをそろそろと下ろすと、彼―篠崎レイは大人びた苦笑をみせた。

「母さんや父さん、アーニャさんに鍛えられていますから」

皇歴2038年9月28日。
二十年前と同じように、今日の空は高く澄み切っていた。




レイの家は少しかわっている。
しかし「少し」というのはレイ自身の感想であって、周囲から見たレイの家は、「とても」かわっていた。

「あ、砂糖…」

三人で囲む食卓にぽつりと女の声がおちた。
先ほどから微妙な空気が流れていた夕餉の席で、レイと父は「やっぱりか」という、諦め混じりの笑顔を交わした。
どうりで肉じゃがが、醤油の味しかしない煮物になっていたはずだ。
この料理を披露したのは、独創的な料理を作らせたら右に出るものはいない女性だったが、まだこんな失敗は可愛いものだった。
そのことに、二人は少しほっとしていた。

「…アーニャ、やっぱりこういうことはレイに任せた方が…」
「うん、アーニャさん僕もさ、料理つくるの嫌いじゃないし…」

男二人は女ーアーニャの顔色をうかがいながら恐る恐るといった様子で言った。
常ならここには、もう一人、一家の家事一切を取り仕切っている咲世子がいるのだが、生憎と彼女は今夜、家政婦の仕事で家を空けている。
もっとも彼女がこの場にいればこんな事態には陥っていないのだが。

「…そんなに私の料理、食べたくない?」

アーニャが半目で、低い声をだす。
いつまでも少女めいた美貌を保っているアーニャだが、若かりし頃は軍人だったと言う彼女のその迫力は相当のものだ。
数年前までレイは、まだまだ鍛錬が足りないから、いまだアーニャのこの迫力に怖気づくのだ、と思っていた。
だが今では、一生、アーニャと母、咲世子に対して怖気づかなくなる日はないのだと、同じように少し顔を青ざめさせている父、ジェレミアを見て悟っていた。

「いや!アーニャの料理はそれこそ毎日だって食べたいぞ、うん!」
「そ、そうだよね、父さん! 僕、アーニャさんが作ってくれるプリンがすっごい好きだし!」

レイの言葉にアーニャはぱっと顔を輝かせた。
他人から見れば、あまり変わらないかもしれないが、彼女と付き合いの長い二人には、今の彼女がこの上もなく上機嫌であることがわかった。

「レイがそう言うと思ったから、プリンもある」

ぱたぱたとアーニャはダイニングに背を向けて、キッチンへとプリンをとりに行った。
とりあえずの危機を脱した父子だったが、レイは少しだけ憂鬱になった。
確かにレイは、アーニャが作るプリンが好きだ。
幼いころから変わらないレイの好物だ。
だが、常にバケツプリンを食べられるほどレイは大食漢ではなかった。

「…父さんも手伝ってくれるよね」
「…善処する」

ジェレミアは父親らしく威厳に満ちた声のくせに、なんとも頼りない答えを息子に返したのだった。


レイの家族は、レイを含めての4人家族だ。
レイ、母、咲世子、父ジェレミア、そして、もう一人の母と呼ぶべきアーニャ。
日本人である咲世子とブリタニア人のジェレミアの間にレイは生まれた。いまでは珍しくもない日貌のハーフだ。
だが珍しいことに、レイには母が二人いた。
生みの親である沙世子と育ての親、アーニャだ。
というのも、その昔、父ジェレミアがオレンジ畑を始めた当時はなかなか経営が軌道に乗らず、レイを産んで間もない沙世子は家政婦の仕事をして家計を支えていた。
そして、その間子供を見れない沙世子に変わりレイの子守りをしていたのが、ジェレミアの仕事を手伝っていたアーニャだった。
時に、父一人母二人、という一般の感覚からすれば変則的な家族構成を奇異に見られることもある。
だがレイにとってこの家族が、愛すべき「家族」なのであった。
今年で18歳になる彼は、いわゆる純「合衆国日本」世代で、今現在、友好国である神聖ブリタニア帝国に支配されていた時代を知らない子供だった。
しかし、レイは他の「合衆国日本」世代よりは、ブリタニア帝国の属領だった時代―エリア11の時代の知識を多く持っていた。
両親がエリア11時代を経験しているのは、他の子供も変わらない。
だが、レイの両親たちはエリア11から合衆国日本への動乱期、まさにその中心にいたのだ。
レイは父や母たちから多くを聞かされたわけではない。
ただたんたんと「事実」を聞かされただけだ。
篠崎の母は、神聖ブリタニア帝国100代皇帝ナナリー・ヴィ・ブリタニアの傍近くに仕えたことがあり、動乱の中心を内側からみまもっていた、と。
もう一人の母アーニャと父ジェレミアは、ブリタニア帝国の軍人として、魔王と恐れられたルルーシュ・ヴィ・ブリタニアに最後まで仕えた、と。
レイは他の子供が親から聞くように、血のユーフェミア皇女や魔王ルルーシュへの憎悪やゼロへの惜しみない賛辞など、両親たちから統治時代、そして動乱の時期に何を思っていたのか聞かされたことがなかった。
そう、ただの一度も。

『レイ、強くなりなさい。その名に恥じない、全ての可能性を持つ新しい時代の子として』

いつか、何の気なしに母、沙世子へとエリア時代に何を思っていたのか聞いた時、彼女はその言葉以外をレイに与えなかった。

『…いつか、レイもいろんなことがわかるよ』

もう一人の母、アーニャも同じようなことを返した。

『もう少し、お前が成長したらたくさんのことを教えよう…そう、私たちが何を思って、何をしたのか…全てを』

そして、父、ジェレミアはとても優しい顔をして、レイの頭をなでた。

父はその「もう少し」の時期を断定しなかった。
だからレイは自分自身で決めた。
レイが18歳になった年の9月28日にしようと。


「アーニャさんのご飯はどうでしたか?」

危険極まりない出迎えを受けたレイは、母とともに居間へと移動し、昨夜のことを聞かれていた。
さりげなくテレビをつけると、父と二人でなんとか片付けたバケツプリンを思い出して、レイの胸はむかついた。

「…プリンは相変わらずおいしかったよ」

微妙な言葉で返したレイに、沙世子は薄く笑ってそれ以上の追及をしなかった。
彼女のアーニャの料理の腕前を知っているのだ。

「私はアーニャさんのお料理嫌いじゃないのですけれどね」

それは母さんが特別なんだよ、とレイは心の中で思った。
居間に入るなりレイがつけたテレビでは、今日という日を祝う特別番組の音声が聞こえてきた。

『今日であの悪逆皇帝ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが我らがゼロに倒されて20年が経ちました』
『あの時代はまさに悪夢でした』
『エリア時代も確かにブリタニアの支配はとんでもなかった。だが、ルルーシュの比ではありませんでしたね』

コメンテーターたちの好き勝手な声が木魂する。

「母さんの方は?昨日はナナリー皇帝陛下にお会いしたんでしょう?」

レイは少し緊張して沙世子に尋ねた。
常ならば、こんなことに緊張をする必要なんてない。
ただ、今日という日が特別で、この話題がこれからの話に重大な関わりを持ってくるためだった。

「少しお疲れのようだったけど、お元気だったわ」

いつもの返事だった。
だが、レイが欲しいのはそんな言葉じゃない。

「何か話したりしなかったの?たとえば、あの決戦の時のこととか、ルルーシュ皇帝のこととか」

レイは真剣な顔で、母の顔を真正面から覗き込んだ。

『扇首相とナナリー皇帝が記念式典にて挨拶を行いました』

テレビの画面には、レイたちの話題に上った二人がいた。

「母さんは…」

レイは言葉を切る。

『みなさまと、あの凄惨な日々の終わりより二十年という月日を、武力による争いなく迎えられたこと、とてもうれしく思います』

ナナリー皇帝の声がしんとした居間に響いた。

「今の世界は母さんや父さん、アーニャさんが望んで得た世界なの?」

あんなに何度も考えた言葉。
でも、やっぱりレイが聞きたいことの本質をつく質問ではなかった。
けれどレイにはこれ以上の言葉が出てこなかった。

「レイ…」

沙世子は少し驚いていたいが、すぐに目を細めて笑った。
それは母には珍しいことに、悲しげにも見える笑顔だった。

「そうね…あれから二十年も経ったのね…」

つぶやくと、沙世子は椅子から立ち上がった。
レイはただ黙って母の行動を見ていた。

「ついてきなさい、レイ。この話は、アーニャさんやジェレミアさんがいないとね」



ずっと思っていたことがある。
レイが生きていくこの世界のことだ。
あの日から二十年がたった今も、救世主ゼロの影響力は絶大だ。昔よりはずいぶん、彼の助力なしで世界は回るようになったと思うが、それでも彼の影響というのは計り知れないものがある。
だからレイは考えずにはいられない。
いつかゼロがいなくなる日のことを。
もしかしたら、ゼロはその仮面の下を挿げ替えて永遠に生き続けるのかもしれない。
だが、果たしてそれで世界は納得するのだろうか。
レイは思う。
決して世界は納得なんてしないだろう、と。
いつこの不自然な平和が続く世界に終わりの兆候が見え始めるのか、レイはいつだって恐れている。

「あれ?レイ、沙世子おかえり」
「二人ともどうした?昼のことなら内線を…」

レイと沙世子が近づくと、別宅の庭で作業をしていたジェレミアとアーニャが朗らかに笑って二人を出迎えた。
レイは歩みをとめた。

「いえ、少し真面目な話ですからね」

沙世子は二人に歩み寄って、やわらかな微笑みを浮かべる。
レイは母や父、アーニャが並んでいる姿を見て唐突に思った。
ああ、こんな生活が壊されるのは嫌だ、と。
不自然でもいい、この平和がなくなるのは嫌だと。

「どしたの、レイ?」

立ちすくんだままのレイにアーニャが声をかけた。

「ううん、なんでもないよ」

レイは笑って、家族のもとに歩み寄った。
これから三人に聞かされる二十年前の話はいったい、どんなものだろうか。
ただ、これだけは確かだと言える。
どんなに不自然でも、穏やかないまをつくるために戦った全ての人たちに感謝をささげることになるのだろうと。

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